唐鵙の蔵

統合失調症になったけれど前向きに人生を歩む人のブログ。日々徒然。

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神様の業と統合失調症の間を行ったり来たり。
いったい何時になればこの状態から解放されるのだろう。
きっと唯の統合失調症の一症状なのだろうが、
どこかで本当であってほしいと願う自分がいる。

マモノもきっとトランス症状のひとつなんだろう。
私は、随分と可笑しな方向に人生を進めてきたものだなぁ、と思う。こんな事、もう何度自分に問いかけて来たか。
いい加減に諦めて日々、自分に身を任せてだらりとのろりと暮らしてしまえばいいのだが、そこはどうにも我の強い私である。何かしら形造りたいという希望が頭を持ち上げて、私に云うのだ。

折角こんな可笑しな状態になったんだ。
何かしら、自己表現に昇華させてみたくはないのか?と。
私の今まで満たされたかった承認欲求が今になって声を上げたのであろうか。思えば、私は進路を決定する時期、本当は何かを造り上げたかった。絵か、文字か、作品のひとつか、それは限定されては来なかったけれど。

あの時の私は、日々をただやり過ごす事しか出来ないほど、気力が滅入っていた。そんな大それた決定を下すだけの気力は残っていなかったのだ。だから、親が勧めるまま、専門学校への進学を選んだのだ。勿論、気力が無くても、最終的に決めたのは私だから、最期まで、なんとかやり切った。といっても、最期の留年まで、であるけれど。

もっと、早くに止めれば良かったとは思わないでもないが、そのおかげで、スクールカウンセリングに通えるようになった過程が在るので、否定はしない。今まで根っこの部分に在った私という自我の可笑しな所に、ようやく光が当たるようになった。

離人症を指摘されて初めてそんな言葉を知ったのだが、以降、私は自分という構成された己が何であるのか、探し求めるようになった。突き詰めすぎて、今こうして統合失調症にもなってしまったが、後悔はしていない。むしろ、人生の活路が開かれたと思っている。

これまで、私は人に頼る事をしてこなかった。他者の都合ばかり優先して行動してきた。もう、それも止めようと思えるようになったのは、こうなったのが切欠になっている。
いいじゃないか、他者のおかげで生きていける事も。
人間、誰かの居場所を頂いて生きているのだ。
動物であれ、植物であれ、土であれ、岩であれ、他者の存在が無ければ人間は生きられない。人間も、人間同士迷惑を掛け合わなければ生きられないし、社会も回ってもいかない。
今度は誰かを頼りにする番なのだと明らめにして、これからの人生を渡って行く心積もりだ。返せる時に、貰った分をお返ししていけば良いんだろう。いつまでも一つの借りに拘るのはもうやめだ。借りは形を変えて、何れ何処かで返上する事になるのだから。

人生万事塞翁が馬。その場その場での生き方に倣って、無理に足掻く事もないだろう。気を入れる時はそれに倣い、緩める時は緩めて。

その中で、見つかる丁寧な暮らしを、私、Rと唐鵙は求めて止まない。まぁ、勿論、YやAも、ケイオスも。

皆で渡る一生だ。
精々楽しもうじゃないか。

終わり。
講読、感謝する。

***
【追記】2019.10.21
よく解らないな。
どうしてそう生き急ぐのか。
もっとゆったり生きればいいのに。
/ヴェッラ

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