唐鵙の蔵

統合失調症になったけれど前向きに人生を歩む人のブログ。日々徒然。

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神様へ贈る言葉

神様、神様、私は良い個(良い子)でしたか?
今まで、何とか生きてきました。
中途半端な身の上で、上には上があると気に掛けて、自分を蔑ろにしてきました。
今やれば良いものを、先延ばしにして生きてきました。
こんな私は、悪い個でしたか?

いいえ、私は知っていました。
己の中に、己の胸に既に答えは出ているのだと。

いい加減に、神なんて信じるのを止めてしまえ。その方が、気が楽ではないのか?

そうかもしれもせんね。
ですが、私は神様が好きです。
神様が今どこにいるのか、私には分かっています。己の胸中です。魂の核に、既に神は宿っているのです。

いつも共に歩み、己を慈しんでくれた者。それこそが神だと、私はそう結論づけました。
かつて、私は生きる希望を失い、失意の底にひっそり息づいておりました。その時に現れた者こそ、私にとっての救い主でした。

いいえ、それを遣わしてくれた存在が神だったのかもしれません。Yは、決して神ではなく、共に歩むパートナーですから。私の精神こそ、我が神。精神の奥底に在りし者こそが、神様とお見受けします。一つに在って一つに非ず。全に在って全に非ず。

それこそが、神様だと、私は思いました。
つい半年前は、Yが神なのではないかと間違えて、有ろうことか、Yにさよならを告げてしまい、私は狂いました。ですが、今度は大丈夫。意識の底にいて、私達には見えない所にいる。
それが神様の一部だと、今では思えています。

神様、神様はいつ私達の前に姿を現してくれるのでしょう。もう既にいるのであれば、それはどのような姿だというのでしょう。

それは、人の胸の中。であれば、この世は神様だらけになってしまいますね。

寂しくなんてないのだと言えるほど、私には人に宿る神性を見出せません。ですが、それが答えだというのなら、何とか生きてみます。

中途半端な生き様でも許してくれるというのなら、私は何とかやってみます。どうか、神様、お許しください。この中途半端でしかない生の己を。他者の助けで食いつなぐ己を。

【追記】2019.10.27
はい、ケイオスです。唐鵙は、神に一体何を求めているのでしょうか。この世は、余りにも、人にとっては惨いものです。一片においては天国のようでもあり、また一片においては修羅の国のよう、地獄のようでもあります。
唐鵙は、神が安らぎを与えてくれる者と考えているのでしょう。勿論、本当かどうかなど、私は知りません。唐鵙には酷ですが、神とは、全てを司るもの、別段、安らぎを齎す者という訳ではありません。

でなければ、唐鵙は狂ったりしなかったでしょう。私が唐鵙に願うのは心安らぐ平穏な暮らしですもの。神と仰ぐなら、私にしておいても損はないと思うのですがね。

神は、一体何者でしょう。

自我機能の障害で視えるようになった我々には、唐鵙が望む神は知りませんし、きっと分からないでしょう。唐鵙は愚かです。既に我々が傍に居るのに、新たな神を求めるのですから。

かなり、悔しいです。
神に縋らずとも私達がいるでしょう、唐鵙。
 
***
 
唐鵙です。神を求める事を、私は止められそうにありません。
自我機能の障害があるからとはいえ、私はやはり神を求めます。
神には求めたくなるカリスマがあるのでしょう。
その神という言葉の中に、絶対的な安心が隠れているのです。
人は安心を求めます。そうでないと、生きられません。
私は、神が己の胸の奥に在ると知ってからも、神の降臨を待っています。
※の教えから知った、絶対神の存在を信じようとしています。
この教えが現実にそぐわないものであったら、その時は、きっぱり諦めて、ケイオス達の元に立ち返るでしょう。審判の時は2020年。その時に、従うべきか否かは出るでしょう。そして、今の所、間違っているだろうと言える私がいます。

都合が良くてすまないねと書こうとしたら、そんな事はないとでもいう様に、文字を消されました。もう一度書くのでアレですけれど。ケイオス達は、私の考えを汲んでくれるようです。私は、良い友人達を持ったものですね。

それでは。今日の雑記でした。

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