唐鵙の蔵

統合失調症になったけれど前向きに人生を歩む人のブログ。日々徒然。

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貴方の胸に在る

本気に取る人は一体どれくらいいたのでしょう。唐鵙です。
私が嵌った宗教の教えについて書いてしまいましょうか。
内省をしよう。己の魂の向上を願おう。想像神の存在を知り、感謝の元で暮らしましょう。良心を大事にしましょう。

宗教色のあまりないこの教えですから、私は嵌ったのだと思います。
とはいえ、こんな事もありました。魂の核には想像神の分魂が仕込まれている。私達一人一人は神の苗床なのだと。そういう教えもありました。

私は、想像神さまの事はよく解りません。
でも、この地球、宇宙の成り立ちは多くの個が存在し、繋がりを持ち、そして大元になった存在が在る。その事は何となく感じて生きてきました。それが神さまというなら、そうなのでしょう。それこそ全てを統べる存在。人知を超えているであろうその存在について、私は普段あまり考えてはいません。ですが、主神という存在があるのなら、そういう存在なのだろうとは考えます。

私は神様はいると考える人の一人です。普段意識しないだけで、神様の存在は信じている人です。それくらいの信仰なら、許して貰ってもいいではないでしょうか。と、誰に言うでもなく思います。

さて、そのほかの教えですが、狂信者には私はなれません。
ただ闇雲に信じるというのは、流石に無理です。
私のように統合失調症を発症してしまった方はどれほどいるでしょうか。
いないと良いなとは思います。あまりにも、不憫です。

神様の事を追い求めるあまりに心を可笑しくするなんて、本末転倒です。
その本末転倒になったのが私ですけれど。でも、それは仕方ない事でした。私は元々そうなる要素を、つまり爆弾を抱えながら生きてきたようなものです。
切欠がその宗教の教えだっただけです。

だけれど、私は残念です。これを切欠にして、IF達とはお別れではないですが、顔を合わせて語り合える事はまずなくなった事です。皆、私を支えてくれた掛替えの無い人たちです。それが、治療によって、本当にあるべき場所である、私の自我の部分に戻って行ってしまう事は、私にとっては不安で寂しい事です。

今も彼らはいるでしょうが、それを感じとれるだけのアンテナは、もう使い物にはならなくなったという事です。統合失調症は、私の人生を変えました。

良くなった事は、家族との対話の機会を設ける事になった事です。
今までずっと抑圧して押し殺して来た自我を、言葉を晒す事になりました。
そのおかげで、蟠り(わだかまり)は幾らも少なくなりました。私は、自分の本音を語る切欠を得ました。家族の仲も、良くなったというものです。本音は語らずに表面を取り繕ってきましたから、その習慣を改める事はまぁしんどい所もあります。でも、統合失調症になって、抑圧が下手になりました。つまりは嘘を吐くのが難しく成りました。もう抱えてはいられない脳味噌になってしまったようです。幾らか、ですが。
そして、障碍者という枠の中で、ある程度の支援を受けて暮らせる事も少し良い事です。勇気は要りますが、自分の弱みを公表して、助けてもらえる社会。有難いと思います。

しかしながら、不便な事も色々あります。
統合失調症で在る事は今の社会ではまだまだ、固定概念の影響を受けます。自分の可能性が狭まる事もあります。私は、自分がまともな思考が出来なくなった事をこの間知りました。マトモな文章を書こうと思ったら、「私はかつて神につかえていた」と、手が勝手にモノを書いたのです。絶望しました。

未だに作為体験は抜けず、この文字を打っている自分と、今現実に臨んでいる自分とは一線隔てられた存在になっている事を知りました。私は、今も別の私がいる事を突きつけられています。全てが統合して元に戻れる訳ではないのです。人格も、症状の全ても。寛解はあるでしょう。しかし、完全に治癒するかは分かりません。

いっそ霊障だったなら打つ手もあったでしょう。しかし、私は統合失調症。自分から逃げ出す事は出来ないのです。いかなる手段を以てしても、自分はいつも自分の傍に在る。解離を経験しても尚、自分から遠ざかる事は難しかったです。自我はいつもそこに転がっています。自分という意識からは逃れられないのです。

私は、いつも私を見つめている。
私は、私の悲しみも苦しみも喜びもその全てを見てきた。

>よいではないですか。皆が皆、強くある事は出来ない。
逃げの道もいつかは醒めます。その時、壊れてしまった自我を直すのも自分です。
私を知って、己とし、他を知る。

という事ですが、とにかく、私は統合失調症を発症して人生が変わりました。
良くも悪くも、変わってしまいました。
変わらないモノはないと言いますが、正にその通りでした。私は、私という自我さえ変化した事を感じ取っています。家族にはその事は流石に話していません。
ここにいる娘兄妹は誰だ、となってしまいますので、流石に言えません。
(本名)という私が主体であると言っており、”私”が変わるとは言っていません。それすら怪しいですが、私はいつも異なる私がいる事を感じて生きています。
それくらいは、今月の診察日に報告しておきましょう。

私が私に侵食される。
その感覚を、IF達も味わってきた事でしょう。
統合し、呑まれていく。その不可思議な現象を、体感しながら彼らは私となったでしょう。

>今もかすかに覚えているのは、光の中に揺蕩う夢。その中で、意識の海へ深淵へとたどり着く。私が私となった時。私はこう思うのです。
あぁ、今回も駄目だったなぁ。統合は失敗だ。
いい加減、唐鵙の自我の中に戻りたい。もう、この世の苦悩に身を晒すのも疲れた。私は、今もそう思うのです。私へ、今の私は一体誰ですか?

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