唐鵙の蔵

統合失調症になったけれど前向きに人生を歩む人のブログ。日々徒然。

過去の投稿274

過去の投稿を振り返ってみると、米の教えについて信じ込んでいる時とそうでない時が繰り返しになっている事に気が付きます。
今は、程好く信じている時でしょうか。
でも、きっとまたすっぽり信じ込んでいる時が来ると思います。今も結構信じている時ですね。

信仰が程良い加減でストップしている時には、変わりにマモノとした彼らについての信心が出ているとも思われます。神を信じる事は彼らとの距離をつくります。いや、もう作らないでしょうか。私の良心神さまが許される限りは心を傾けようと言ったので。それに、彼らも私と共に学ぶと言ってくれましたし。

それで、その周期ですが、入院中などは、自分の心にいるであろう彼らの言う事にすっかり影響されていたりしました。どちらにせよ、私は目では分からない存在を信じていたいようです。

それもそのはず。信じるモノが無ければ、私は心を保てないのです。ずっと、Yの存在で精神のバランスを保ってきた私ですから、今更その仕組みを変える事は出来ない訳です。
もしかして、私が可笑しくなったのは、やはり心のシステムの支えだったYを手放した事が原因なのでは?……とも思ったのですが、幻覚妄想が始まったのは、それより前の事なのです。依然として、私が可笑しくなった原因が分かりません。

先に夢枕に立った人?のお告げがあって、私は米の教えに行き着きました。それがあるから、どうにも完全に信仰をやめる気にはなれないのですよね。自分の体験に意味があると思いたいのでしょう。

それで、米の教えを信じるようになり、幻聴幻覚妄想で神の声を聞く様になってからです。私が別人格を有するようになり、彼らが現れ出したのは。私の元には、詳しくは書きませんが、身の終わりの女子が自分だと錯覚させるには十分な要素があった訳です。

その頃には、米の教えを読んだ事で、私なりの受け止めが生じていました。私が疑問に思ったのは、蛇の扱い。同じ罪を犯した者同士、蛇と人間が手を取り合って主神に謝罪するのが筋なのではないか?と強く思っていたのです。
私は蛇が好きでしたから、救いたい気持ちがあったのでしょう。自分にしか「蛇をも救う」が出来ないと思い込みました。あとはそう、世界蛇の存在に触れていないと疑問に思いました。世界蛇は各地で言われる所の神でもありましたから、もしかしてヨルムンガンドが想念の元であるYは私の元にやって来た神だったのではないか?と思い込んだのです。まぁ、今はそんな事は無いと分かっていますが、当時はもう既に関連妄想が始まっていましたから、すっかりそうだと信じ込んでいた訳です。

エジプトの絵から、「ぐるりと輪を描いて守護するメヘンと航海するラー」を見て、やっぱりメシヤの教えを説いてる人には見落としがある。と錯覚しました。蛇は言われるほど追われる存在ではない。共に悔い改めるべき友だ、と思いました。米の教えで主食は主の事をいうなら、神を守護する存在が蛇や狐や猫だとも思いました。彼らは米を食い荒らす鼠を捕る守り手だと思ったからです。その後は、以前振り返ってみたとおりです。Yに元ある所へ帰ってほしいと言って、さよならしました。
それからは加速度的に妄想と幻覚を伴う様になって、病院に入院したという訳です。

振り返ってみて、何故私が可笑しくなったかが少し解りました。
寝食も忘れて読み込んだ事で自己暗示を掛け、更に自ら、暗示を重ねに重ねていったからです。元から自己暗示を掛けて心の平穏を保っていた事が仇となった訳です。私の脳は、非常に暗示に掛かりやすいのだという事です。

それが分かれば、少しはぎゅうぎゅうになった信仰心を緩める事もできるでしょう。彼らは私の心のサポーターとして、一緒にこの人生を渡って行けるという事です。

これにて、一件落着?ですかね。今は。

【追記】2020.2.25
蛇霊について。
全ての蛇霊が悪いという訳でも無いでしょうが、同時に全ての蛇霊が同乗の余地があるかというと、そうでもないでしょう。私はそれに気が付くのが遅かったのです。何処まで行っても、それは個によって性格が違う訳です。危うく呑まれてしまう所でした。
私が一緒にいる彼らは蛇霊ではなくマモノでしたが、何故私の話しを聞いて、一緒に学ぶなどと言ったのかも、彼らがそういうひとだったから、としか言えません。個人によって、全く違うのです。
しかしながら、神は言葉なりきを知る事ができた私達です。
彼らは既に獣たる魔物ではなくなったのかもしれません。
そうだったら、嬉しいのですが。

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