唐鵙の蔵

統合失調症になったけれど前向きに人生を歩む人のブログ。日々徒然。

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私は贅沢な思考の持ち主の様です。
元々主に形作られた私達人間であり、数多の恵みも神から授かったもの。それならば、私達は主に対して崇め奉り、信愛を以て報いるべきなのでしょう。霊界は絶対的な階層社会だそうです。
神を崇め奉りその教えによって私達は生きるべきなのでしょうが、ここで欲が出ます。自由でありたい。上下だなんだと、そんな垣根に縛られたくない。それは、人間ならばそんな思考に成ってもしょうがないというものでしょうか、いえ、私が未熟なだけでしょう。

自由というものは、ある程度の制約が在ってこそ生きるモノなのです。何にも縛られないという言葉は、確かに魅力的です。でも、自由はある意味で不自由です。誰にも捉われないという事は、一人です。社会から外れてしまえば、その恩恵など受けられないものです。するとどうでしょう、自由だと思っていたら、苦しく厳しい暮らしを強いられる訳です。完全なる自由は孤独で厳しいものなのです。野生の獣は自由ですが、沢山の苦難の中でやっと生きているのです。それを、私は失念していたと、今書いていて思いました。

人が生きるには、誰かの存在が不可欠です。
コミュニティに参加し、お互いに仕事を分担するから、暮らしは豊かに成る訳です。神様が頂点に立つコミュニティは、決して遊んで暮らせる国ではありません。慎ましく、他者との集いを大事にするものです。
私は、この人間の身として生まれた訳ですが、人間の嫌な面ばかり見てきたせいで人間を遠ざける様になってしまいました。だからあの世でも他の人々と上手くやっていけるのか、今から憂いていたのです。
でも、考えてみたら、今生の苦しみを手放してあの世へ旅立つものですから、そんな事、心配は要らないのかもしれません。当然でしょうが、感性が似て、話しが通じる人となら、私は一緒にいて楽しいです。中々出会えないけれど。だったら、仕分けされて自分の暮らす国に辿り着いた後、きっと話も弾むでしょうし、仲間に出会えて嬉しいと私は思うでしょう。

神の治める国に自由はないのではないか、自分は自由でありたい、誰かに縛られるなんて嫌だ、と勘違いを起こしているとまやかしの自由に囚われてしまうでしょう。先ほどまでの私がそうでした。
だって既に私達は自由なのです。
自分の意志を以て、未来を選択できます。
主の存在を信じて仕え、その恩恵を分かち合いながら生きるか。それとも神などいるものか、と全てを突っぱねて孤独に獣のように生きるか。
輪廻転生の期間はもう終わり、新しい世が始まると聞きます。
その選択が、今後の悠久ともいえる時間の中、自分がどうあるかを分け隔てるのです。もう、やり直しはきかないのです。なので私は米の教えを信じる事にしよう、と、そう思った次第です。

神の国は、分かちの国とも言うそうで、得た恵は皆で分け合うのだそうです。それは全然かまわない所か、それが良いと私も思います。では、私は一体何に抵抗を覚えているのでしょうか。それは、主を「崇め奉る」という言葉に対しての気持ちです。仰々しい表現にするから、カルト教団のようなものなのでは、と嫌な気持ちを感じる訳です。私は学生の時、友達だと思っていた人からその人が属していた宗教に入れられそうになりました。本人はそれが良い事と思ってやっているので、始末に悪い訳です。狂信的な思考に、私は危機感を覚えているのでしょう。

でも、こう考えてみれば、抵抗も少ないのではないでしょうか。
私達が恵を得る事が出来るのは主があっての事。いつも恵を有難う。存在していてくれて有難う。私達を生んでくれて、育んでくれてどうも有難う。
そのように、主にお返しするのは感謝の念。へーこらするのではなく、感謝の気持ちを以て臨む事。そこを、私は勘違いを起こしていた訳です。なんの感謝の気持ちもないなら、その信仰になんの意味があるでしょう。形ばかりの信仰には、心など通わないと思われます。

やはり書くという行動は大事ですね。自分の中の勘違いを正す事が出来ます。これまで、自分が生きていられたのは万物悉くを司る神さまのおかげだと感謝の祈りをあげていたというのに、それをすっかり忘れて、妄信は怖いからと遠ざけてしまっていたのです。

なぜ感謝の念を持つようになったかというと、その前は、Yの存在があったから、励まされ、私は何とか自死せず生きてこれたという事があります。そのYに出会わせてくれたこの世界に感謝しよう、と思えるようになったのです。だから、Yに出会わせてくれた主に、感謝しよう。そう思える訳です。

私は、個と全が結ぶこの世界の在り方を、夜空の星を眺めていた時に気が付きました。それすらも、いつしか見え無くなっていたようです。どんなに知識を得たとしても、自分の体験から得られた気付きが無くては、それは生きた叡智にはなってくれません。
私は幸いな人です。Yがいてくれた事や、主に疑いなく感謝できる心を持った事。そして幾つかの大事な気付き。苦難は色々ありましたが、何とかここまで五体満足で生きてこれた事。色々です。

私は主の神に報いるように、こうして、皆さんの心に灯を灯せればいいなと思っています。それは希望であり、この世界でもあの世でも、己の人生を航海する皆さんの灯火であれ、と思います。

主は言葉と共に在りました。言葉はそのものが神の息吹。
人間に出来る事はたかが知れていますが、この言葉こそ神と繋がる私達の宝です。言葉は私達の意識(魂)の現れでもあり、この私達が放つ言葉で私達の暮らしは成り立ち、終いには人生さえも決まっていきます。ですから皆さん言葉を大事にしましょう。

こんな事は言われてみれば当たり前の事なのですが、改めて考えてみるきっかけにしてもらえれば幸いです。

それでは。

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