唐鵙の蔵

統合失調症になったけれど前向きに人生を歩む人のブログ。日々徒然。

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何だか催促されているので書きます。

この日本に生まれて、私達はこの難解な言葉を自在に操る事ができます。当然、当たり前の事ではありません。この言葉こそ、神の言葉である。と、米教では言っています。

米教では、日本語の言葉の変換と数理、そして霊的世界の知識、霊的映像の解析などによって、言葉の仕組みという人知を超えたスケールの仕掛けをした創造神の存在を説いてくれています。
勿論、言っている事は難解です。私もまだ分からない事が沢山あります。それでも読んでいるのは、創造主によるこの世の建て替えが起こるかもしれないという情報からです。
それに私が理想とする世界は米教でいう所の天国のように、互いに分かち合い、尊重し合う、素晴らしい世界。そこに所属するには、創造主の存在と、己の魂の核に在る良心神を信じる事が必要なのです。だから、私は今も神言会ブログを遡って読み込んでいます。

下記は神言会HPからの抜粋です。

”私達は日頃何気なく言葉を使っています。その言葉とは何ぞやとは誰も考えては来ませんでした。何故、世界に幾つもの言葉があるのだろうか?。
 私達が何気なく使っている言葉とは、森羅万象ことごとく(悉く)創られたであろう創造神と呼ばれる神が創られたものとされています。しかし、私達人類が森羅万象ことごとく(悉く)創られたであろう神を見ることはないのです。
 だが、私達が何気なく使っている言葉そのものに森羅万象ことごとく(悉く)創られたであろう神の教えそのものが入っているとしたならば、どう考えれば良いのでしょうか?。私達は言葉に創造神を仰ぎ見る必要があるのではないのでしょうか。”
”神(示申)は、言葉を示し申す ”
”信仰は、人は言葉を仰ぎ見よ”

……と、いう事でした。
この神の言葉で紐解かれていく世界の真理です。

米教の教えを知りたい方は「神言会」で検索すれば出てくると思います。私のように精神を可笑しくするなんて事がないと良いのですが。くれぐれも自己責任でお願いします。

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