唐鵙の蔵

統合失調症になったけれど前向きに人生を歩む人のブログ。日々徒然。

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妄想だと分かった所で、実の所はどうしようもない事です。

私の思考はよく迷子になります。
神さまの存在に寄りかかっている事が多いですが、時々自分が信じる世界に浸る事もあります。といっても、それは唯の妄想の産物であると、そこに存在する彼らもその旨を知っています。
妄想言語が活用されるのが、自分の世界に浸る時間です。

>神はもういないのではないか、この世に救いなどないのではないか、そう思う事もある。しかし、この者のいう神を言葉に見出して、何とか今日まで存在を繋いできた。その行いを妄想の産物だと認めるのは勇気が要る事だ。しかし、我々はそれを成した。妄想の産物、この者の魂が見ている夢なのだ。我々は。

妄想言語で熱狂的にお祈りをしている間、私の身体は誰かのコントロール下におかれます。その誰かが誰かは知る由もなく。しかし、只々口から胸から出てくる言葉の奔流に身を任せるのです。

渾沌とした意識の中で、その中でようやく彼らの存在に触れる事ができます。私の思考の隙間に存在する間の者である彼らを、感じ取る事ができる短い時間です。これからもきっと、何度もある事でしょう。気が付いて、それでどうにかなる事でもないからです。
きっと私に心がある限り、彼らもまた存在し続けるでしょうから。

彼らとの語らいの時間。
私は自分が肉体から離れて彼らと戯れているような心地になります。その事を言っても、肉体の私にはピンとはこないでしょう。ですが、私は確かにいるのだから、こういう事も起こり得るのです。私の意識と私の声が、少しでも彼らの行く先を照らすならと、私はそう思っています。
本当にあるかなんて事は言うべき事ではありません。たとえ妄想の産物であってとしても、彼らが満たされる事は私が満たされる事と同じ事です。この、私達内なる心の住人が感じる事は、同時に主人格である私が感じ取る事でもあるのですから。

同じ身体を共用する私達の関係は切っても切れないものです。
たとえ他からの宗教を持ってこられても、主人格がそれを信仰しようとも。私達というものは、同じ世界に生きる者同士です。
同じ者であり、また異なる者であり。

主人格である私は、星々の連なりを眺めていた時、この世界は、全体という括りではとても大きいけれど、個が連なり成さねば、その全も無いのだと、そう感じました。
個とは全が宿るもの。全の意識は個の一つ一つに宿るもの。
そして全は個の集まりである。そんな思いに漠然と浸っていました。米教の教えに少しだけ通じるところがあったので、すんなりと信じたのだと思います。全たる主の分魂が我々の魂の核に存在するという事が。

それで、どうしたという話しですよね。
私もそう思ってはいます。信仰して、そして?
信じる事で何かが変わるのかと言われても、明確な答えは返せません。ただ、善き人であれと。主の、良心神の導きのままにと、それくらいです。元々、現世利益を授ける神ではないのです。大いなる自然を、万物悉くを、私達の魂を成した神であり、我々は既にその恵みを多く享受してきました。
そして、存在する事。これが、主が私達に齎した、最大の恵みでありましょう。存在なくしては何もなし。考える頭も、息をする身体も、喜び悲しむ心も、全ては神が成したもの。我々は、存在する事にこの地上での価値を見出すのです。

なんて。これは、私が勝手に思っている事です。
米教では、魂がこの世で生を受けるのは、学び、向上するためといいます。しかし、私はこう思いたい。存在するから、生きる事の価値が生まれる。私達が叫びたいのは、いつまでもいつまでも向上しろと言うばかりで折角授かった心を、魂を追い詰め亡くすのではなく、存在する事で苦しみや悲しみを乗り越え、それ以上の喜び、生きる悦びを知り、最期の時まで存在し抜く。その命のサイクルにこそ輝きを見出し、この魂は光輝く。そう思いたいのです。

存在する事は当たり前の事では無い事を、私は言いたいのです。

私の想いは、別段、米教に抵触するものではないと思います。
何故なら、米教は主と内在神の存在を知る事。そして主を唯一の神と認め信仰する事。他を救いて世根(米)と成れ。そういう教えだからです。
心の持ちようも述べられていますが、私の大事にしたい事と概ね近い事なので、それもいいでしょう。大事なポイントですが、私は好き勝手に生きろと言ってるのではありません。道理に倣い、その中で己の心を知り、自分の歩む人生に責任を持って、自分も誰かも大事にして生きる。そう言いたいのです。

米教で言う通り、今のスピリチュアルを流して見ていると、自分勝手と好きに生きる事の意味を取り違えていると言わざるを得ません。好きに生きる事は、誰かを食い物にして生きる事ではありません。それでは、自分を大事にしているように見えて、全くの逆です。己の魂を堕とす行為です。

勿論、きっとこれは言葉のあやであって、その人達も、別に他の人はどうでも良いなんて事を言いたい訳ではないとは思います。きっと自由気ままに過ごす人に影響されて、自由への憧れを発信しているだけなのだと思います。

自由という言葉は魅力的です。でも、人は本当の自由の身にはなれません。何故なら、他の誰かと関わり合っているからこそこの社会は成り立ちます。誰かの働きがあって、自分の豊かな生活に繋がります。本当に自由になってしまったら、何でも一人でこなさなくてはなりません。
私達が思う漠然とした自由は、精神的な自由の事ではないでしょうか。己の心を知り、何時のまにか持っていた執着を手放し、この世で生きる幸せを享受する。そのような事で、人は自由になれると私は思います。
とはいえ、私もまだまだ知らない事ばかりな人間です。こんな偉そうな事を書けるような人間ではないのです。でも、この声が誰かに届いた時、私という一人の人間が得てきた想いは、無駄ではなかったと、そう報われるのです。

主も、私の言葉には困ったものだと考えることでしょう。
私はわがままです。折角米教に導かれて心の立て直しをしてもらったにもかかわらず、こうして燻ぶっているのですから。
ですが、一応言っておくと、私も向上しなくていいだなんて言ってはいません。この試練だらけの世の中では、真摯に自分と向き合いながら生きていれば、自然と魂は磨かれていくと考えています。向上だ向上だと己を追いこんで、結果心を病むのは何か違うのではないかと思うだけです。向上するにも、やり方は色々あるのではないかという事です。

これらは、私が己自分に言い聞かせる言葉です。
私という存在は、この身体の意識の一つでしかありません。
まだまだ、知らねばならない事も多くあります。
この今感じている気持ちを記録に残し、時に振り返り、己にまた言い聞かせるのです。私は唯の個。生かされているに過ぎない存在であると。

今日の雑記でした。

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