唐鵙の蔵

統合失調症になったけれど前向きに人生を歩む人のブログ。日々徒然。

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あくまでも統合失調症だという視点から今の具合を見ると、まだまだ治ってはいない事に気が付きます。それは、私が未だに妄想言語を語り、歌い、彼らの存在に翻弄されているからです。彼らは未だ私の元を離れずにいます。
そして、私はそんな彼らの影響を受けて生活を送っています。
薬を呑んだからといって、統合失調症が完全に治る訳ではないのでしょうか。

正気になった時は、一つ一つ、思考や行動が統合失調症によって制限されている事に気が付きます。
彼らは私の数ある人格の一つであるとしますが、その統率がとれていないが故に、私の精神はぐらついています。
神さまに関してもそうです。信仰は自由なので私は制限していませんが、一部の思考がその信仰によって束縛を受けています。
できるのであれば、この思考すらもフォーマットしてしまいたい所です。でも、それをしてしまうと、もはやそれは私という人ではなくなってしまうので、できませんね。

米教なくしては、今の就労移行に通う私には成り得ませんでしたが、そのせいでこれ程の不具合が生じているのですよね。困ったものです。
きっかけの一つでしかないという事も、まぁ分かってはいます。
米教に出会う前から、既に私の精神は可笑しくなっていましたから。辛うじて、病気のラインを回避していただけです。

これからどうするか、というのは考えてもどうしようもない事です。どうしていたって、症状は現れるのですから。
妄想言語を以て歌う、語る、演じる。
これらが今の症状の中心です。部屋に一人でいる時に限定される症状ですが、コントロールはあまり効きません。その時が来たら、私は延々と意味不明な言語を喋っています。手が勝手に動き、見えない誰かがいるとして何か行動を起こす事もあります。
この症状は、まだまだ消えてくれないようですね。

怖がらずにこれらの症状に意味はないと出来るなら、私も楽になるのですがね。意味があると思いたいから、何時まで経っても症状に待ったが掛からずにきたのではないでしょうか。

ある歌を聞いている時、気持ちが自由にならない時もあります。私にも自分の心に知らない部分があるという事でしょう。人の心は自分が知っていて、他者も知っている部分。自分だけが知っている部分。自分は知らないで他者が知っている部分。そして自分も他人も知らない部分とに分かれます。ただ、それだけの話です。

自分の心が分け隔てられているという感覚も、症状の一つと言えるでしょう。自我機能の障害です。中々治りません。作為体験もまだまだ続いています。

ところで、正気になっている時は、大変につまらない気持ちです。
何かしたい事がある訳でもなく、ただ時間が過ぎるのを待つばかり。こうして記録に向かえる時は良いのですが、そうでない時もあります。気持ちが急激に萎んでしまうのです。ので、何をするでもなく、ぼんやりとしている。そんな時間です。

そんな今日の独り言でした。

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