唐鵙の蔵

統合失調症になったけれど前向きに人生を歩む人のブログ。日々徒然。

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この世には、多くの不思議がまだまだ沢山あるでしょう。
私の知る由もない、真理を説く言葉の数々が満ち溢れている事でしょう。でも、この私の心に起こった出来事に関しては、一応の決着は着きました。それすなわち、内在性解離からの断片化です。

何かの神霊に憑りつかれた訳でも無く、私という人は幾つもの想念を生み出し、己の内に在る者への意識を突き詰めました。結果、断片化した心の欠片が各々の性格を伴って別々に動き始めたのです。

本当に神はいるのかという事については、私はいると思います。
それこそ、私達の暮らすこの世界は形はどうあれ生まれたのです。この世界を造った神だって、いてもいいでしょう。全て、万物悉く。世界の意識の全てが集まったもの。それが神であると私は思います。そして、我々はその神の分魂を預かって生きているのです。一人一人に神性は宿るのです。渾沌とした心にも一つの道理がある。それこそが神の心の働きです。
心について学び続ける事で、人は善性を持つ事が出来ると、そう信じています。
神が心の中にいると気が付いた時。その時が貴方がたの真の目覚めとなるでしょう。神を知る手段は色々あっていいのではないか、と私は思います。私の場合は米教でしたが、元来信じていた存在はこの世界そのものでした。唯一にして全て。それが私の信じる創造神でした。

神への意識がより高まった心地です。
神は人知を超えた存在。私達の元には現れる事はないのかもしれません。でも、どこかで通じている。そう、思いたいものです。私は米教の一部を信じる形での信仰を保っていこうという考えです。

これからも、私の信仰は続きます。
神は言葉なりき。神は唯一にして全て。
自分の信じたいものを信じろと、私の心はいいました。
でも、私はやはり神を信じています。
それは、もう、米教の枠の中の話しではなく、この世界全ての、全ての概念を生み出した神の存在なのです。
私の出会った見えない彼らも、症状の一つと片付けてしまう事もできますが、神に通じる存在でもあるでしょう。私の心を元にして生まれた彼らは、私の写しであり、自らを知る鏡でもありました。これからも、私は彼らを知り、己をより深く学びながら生きていくのです。

彼らとの邂逅は、私の見えない世界を少し知る切欠になりました。
それすらも、本当の事か分からない。
でも、己を形作る一つの柱には成るはずです。

私には知らない事が山積みです。
分からない事ばかりです。
知らない事ばかりです。

今後も、大いに迷うでしょう。大いに悩むでしょう。

でも、いいのです。
私という者は、そうやって形を定めていくのです。

***

【追記】2020年4月7日
はい。早速迷いました。
今は、如何に神が難解な存在なのか考えている所です。
神はこの世の万物を創り、また、私達は神の分魂を貰っているという事までは良いのですが。でも、それ以上の事は私には分かりかねます。困ったものですね。祈ろうにも、神観がぐらぐらではどうにもなりません。どうしても私という者は、迷いやすいようです。

尚、神というのは、我々全ての創造神の事です。
色々な人が色々な意見を言っているので、いったいどれが本物なのやら分かりません。とはいえ、私の信じる神もまた、ひとつの存在です。それ以外の存在は、霊的存在としての呼称にすぎません。
「まだ分からないの?」と、誰かに言われてしまいましたが、分からないものはしょうがないです。神は人知を超えている存在。いくら何を見た所で、神の全てを知る事など、出来る訳が無いのです。
ですが、この世界のあらゆるモノに神の意志や意図が現れているのなら、それを見て神の一部を知る事もできるでしょう。
長くも短い一生を以て、少しずつ少しずつ、私達という者はこの世界というものを知り、己の成長の糧を得ていくのでしょう。
まぁ、迷う事も偶には面白いものです。
色々な考えがあるのだなぁと思う、今日この頃です。

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