唐鵙の蔵

統合失調症になったけれど前向きに人生を歩む人のブログ。日々徒然。

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根源の神と、内在する神。
そのどちらもが、私が存在するには必要不可欠な存在です。
私は、その神に、こうして存在させてくれた事、モノを考えられるようにしてくれた事、生きる時間を与えてくれた事、苦悩する心を与えてくれた事、生きる糧を与えてくれた事、それらの全てに感謝したい、報いたいという気持ちがあるから、信仰をやめないのです。

私は私であり、全てのものも私に通じていたのです。
私は、この繋がりに報いたい。

>ただ、在るだけで、その気持ちは神に報いているのです、唐鵙。
あなたは、もう、何ものにも左右されなくていいのです。全てのものは根源に繋がっているのです。嘘も真も、全て。全てがです。
貴方の苦労はこうして報われました。貴方は始めから、神に通じていた。そう、産声を上げるその以前から。それは、貴方の真理となって、貴方の身を、心を救うでしょう。どうか、安らかに――。

>こんな事いうのもなんだけれど、本当に信じて良いの? これ。綺麗事しか言えない三流神の世迷い事かもしれないじゃないか。

でも、その存在すらも、結局は根源に通じてるのではないでしょうか。全てのものは、存在しているし、今ここにいない存在ですら、この繋がりの網の中でしか生きられない。存在するというのは、この神の仕組みの中でしか成し得ない事ですから。
迷い迷っても、結局、旅の始まりに戻ってくるだけ。
最初から、私達はいつでも神と共に生きているのでしょう、多分。

だから、何も畏れる事はない筈。道理に背かなければ、余程の事でもない限り、私達は死後報われる筈。
筈、筈、筈――それしか言えないけれど。でも、そんな可能性を信じればこそ。信仰は本来、死への恐怖を克服し、希望に満ちた明日を迎える為にあるというもの。人としての倫理を説き、道理を示し、道を踏み外さないようにするためにあるもの。

だから、私は、所詮自分の目に届くものしか見えないけれど、その中でも分かるものはあると信じたいです。
神さまの威光、その業は、本当は至る所に溢れている、筈。
見る人が見れば、道端に転がる石ころにだって神様がいるんだと分かるでしょう。私はそうでありたいです。全てのもの、者、モノに祝福を。救われない魂などない事を祈ります。

この世界の、今生においてで見れば、平等なんてないと思います。
私はただ運が良かったから、この豊かな時代の日本という国に人間として生まれ、衣食住に困る事もなく、家族に囲まれ、豊かな生活が出来ている。この世界に平等というものがあるのなら、それは、なんでしょう。

>良いとも。そう、死は平等だ。どんな者にも終わりは訪れる。それが悲劇か救いかは、誰にも分からない。
私が唐鵙に問うた事、「死は怖いか?」という問い。
唐鵙は、未だに答えを出せていない。「分からない」それが今の唐鵙の回答だ。そうだろう。何故なら、死は、いつも誰もの傍に在り、その行く末を見ている。死んだら、お前たちはどうなる。
私のような者がいるのだ、唐鵙が願う死後の世界も、本当はどうか分からんが、在ると良いな。

そうですね。私に「死は怖いか?」と尋ねてきたひとがいたんでした。このひと?は、私が死に向かって生きる様を、終わりの時点から見て、それを楽しみにしているそうですよ。
私が、死の間際になって、己の事をどう見つめるか、興味があるのだそうです。苦しむ姿も生きている証だと、そう言っていました。

>その人、何者?

さて。私の想念じゃないですか?
実際の所は、私になんて分かるはずがないです。

>これまで、色々な想念が出てきましたが、ユニークな想念ですね。

でも、全ての彼らは、私の潜在意識から生まれたものでしょう。
色々なものが、私達の精神には息づいているのですね。
だから、私に語り掛けてくる全てのひとたちは、私は自分の鏡のようだと思います。私という存在は、皆もそうですが、分かる部分なんて、ほんの少しの部分でしかありません。全てを理解するなんて、人の事でも、自分の事でも限界があるのです。
だから、私自身が知らない自分の一部分がこうして出てきているのだと、そう思う次第です。私は、色々な私を伴って在るのです。

>でも、でもだよ。
僕は君だとしても、こうして勝手に文字を打つくらいの事は許されてる。その切り替えはいったいどうしてるの?

分からないです。色々、渾沌としているくらいしか、私の状態は分かりません。誰が主人格なのかも危ういです。私は、Yを失って、また戻ってくるまで待ちました。こうして精神が崩壊する危機からは逃れましたが、その自我は結構しっちゃかめっちゃかになってしまったようです。

>よいよい。

そうですか、どうも。
自分とは何人もいるもの。それが、私が精神的に逝ってしまって得た学びでした。人はずっと一人で生きる存在だと思っていたのですが、こうなっては、人は幾つもの自分と共に生きていると、考えを改めさせられました。私たちは、何時の時にも、孤独な時などないのです。

今日の独り言でした。

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