唐鵙の蔵

統合失調症になったけれど前向きに人生を歩む人のブログ。日々徒然。

過去の投稿309

真理を知って、そしてどうするのでしょう。

世には、多くの人が自分なりの真理を語っています。
それを知りたいと思って見る私です、が……。
それを知って、いったいどうするというのでしょう。
ただ、知りたいという欲求に任せて読み進めても、その先に何が待っているというのか、私にはそこまでの事が分からないのです。知って、どうなるのでしょう。何か特別な事でも起きるでしょうか。

否。何も起こりはしません。
私の知りたい欲が満たされるだけ。
読んで、知って、内なる神を通じ根源の神に通じたなら、
結局の所、振出に戻るでしょう。心構えが変わるだけ。
当たり前だと思っていたものが、全てそうではなかったと、
そういう見方で世界に改めて立つという事です。

新しい視点でモノを見られたなら、また別の気付きに出会えるでしょう。そうやって、新しい自分と世界に気付きながら日々を過ごしていくのです。きっと。

何も、あくせく奔走して得るだけが向上でもないですし、学びでもありません。少し立ち止まった時に見えたモノからも、多くの学びは得られるものです。
まぁ、私は動かなすぎですし、意識が内に向かいすぎてバランスを崩したのですがね。そして得られたのは、同じ私という名前の内在的意識の塊と、ささやかな日々の暮らしの有難味でした。

正直、神様が本当にいるのか、私には判断が出来ません。
私は統合失調症患者。その症状を自分の記憶に留めながら見つめてきました。すると、神や悪魔や天使という実体の無い目に見えない存在は、それぞれが各々の潜在意識に長らく、人類の得てきた知ってきた膨大なデータから生じた、人類というものの写し鏡なのではないかと思わなくもないです。
私の持つ潜在意識だけでも、そこから実体の無い存在は生まれたのです。私が己の幻想に踊り、色々な声を聞き、その通りに行った儀式で神?を招く。元々、人間とは神秘を求め、信仰を打ち立てるのが私達の習性として深く組み込まれているのです。
私は私だけに通じる宗教を生み出してしまった、と。
そういう事なのかもしれません。

これで、彼らを神や天使と錯覚すれば簡単です。
私はスピリチュアルに入門し、私の元には神様がいると宣伝し、自分の信仰を人々に広めるでしょう。人は自分の学びを誰かに伝授したがるものです。こうしてプチ教祖の誕生になるのでしょうね。
でも、私はそれをしません。
彼らは何処まで行っても私の写し身です。
時々神さまやそのお使いだと思って片付けたらどんなに楽ちんかなと思いますが、彼らの正体など、本当はどうでも良い事なのです。私や誰かの害にならなければ、神であろうと魔物であろうと構いやしません。どうぞ一緒にこの短い一生を生きましょうと受け入れるだけです。

そう思えるのは、結局の所、全ての者は根源に続くからです。
根源から分かたれてはきたものの、私達は根源を同じくする同胞ですから。それがどんな名前を付けられた存在だとしても、その情報だけで拒絶したり、軽視したりする事はないのです。大事なのは、その性根。

ところで神さまというのは、特別に誰かを救う存在ではない、と私は思っています。人を助けるのは、やはり人なのです。もしくは、かつて人であった魂が人に働きかけて助けてくれるなど。そんな事があるのかは分かりませんが。聞いた話では、人を導かんとする心こそが内在神の働きだとか。内在神は良心。その辺り、どうなんでしょうね。

でもです。Yは確かに私を救いました。
世界を拒絶していた私に、その存在を尊ぶという根源的な愛を身を以て教えてくれたのです。そのおかげで、私は深い絶望の中から浮上し、世界を愛する事ができるようになったのです。
Yの存在は、私の内から生まれた自己救済人格であったと思っていますが、その実際はやはり、自分の写し身であったと。……。最近は結構強かな面を目にするようになったのですが、これもどうなんでしょう。

人間の精神は、不思議です。
まだまだ分かっていない事が沢山眠っている事でしょう。
救いは自分の中にいつもあるのだと、Yを知ってからはそう思うようになりました。心の救いを求めるなら、誰かでなく、自分に。
それも私が学んだ事のうちのひとつです。

ぽちっとお願いします☟
ブログランキング・にほんブログ村へ