唐鵙の蔵

統合失調症になったけれど前向きに人生を歩む人のブログ。日々徒然。

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反省の気持ちを込めて書きます。
人間に価値の大小があると、前回では書いてしまいました。
人間には本来なら価値の大小などない筈ですよね……。
社会における役割においてはその限りでもありませんが、人間個人では何を持とうと、持たないでいようと、価値に違いはない筈です。私はどうやら、大きな勘違いをしていたようです。

ただ、人間には個性がある。それだけです。
私が人間としての内面の充実を図ろうとするのも、誰が何に固執するかも、結局は個性があるだけです。そこに価値の大小はない筈なのです。とても恥ずかしい勘違いをしていました。

自分の書いたものを読み返してみて、あれ?と思った次第です。
比較的早めに気が付けて良かったです。記事を引き払う事もできましたが、自分への戒めを兼ねて、そのままにしました。
どうしてそんな風に考えてしまったのでしょう。
それはおそらく、自分の価値観でものを図る癖があるのでしょう。人間にはよくある事ではありますが、こうも恥ずかしい勘違いをすると、縮こまってしまいます。なんて事を考えた事か。

>私は良いと思ったんですけどねぇ。
何故って、人間は魂を磨く為に生まれなおすのでしょう?
そして、霊界は絶対的な階層制。その観念から見れば、人間として出来不出来は存在するのでは? ね、唐鵙さん。

まぁ、そう言われるとそう思わなくもないですが、それはあの世があったらの話しですし、真実なんて誰にも分からないですから。私は、人間だけの話ではなく、命に優劣があると言ってしまった己を悔いているのです。勿論、私は自分の命を蔑ろにはできません。他の命を頂きながら、日々、誰かの居場所を頂きながら生きています。それが生き物の定めです。でも、だからこそ感謝し、その犠牲を忘れない。そんな人間でいたかったのです。

>あぁ、そうなのか。人間なのだから、もっと開き直って生きても良いんじゃあないか? 誰も貴方を咎めない。

そうかもしれません。でも、自分が一番、愚かだと感じるのです。こんな事では、到底天国住民のような心には至れないですね。というか、それ位の人々の精神はどうなっているのでしょう。あぁ、駄目だ。あの世の階層を基にすると優劣ついた話になってしまいます。そんな事も考えなくなって、博愛の精神に目覚めれば理想に近づけるでしょうか。

でも、命の価値ってなんでしょうね。
虫一匹と家畜、そして人。同じ命ですが、私達は自然と命に優劣をつけて扱っています。人間の生き死にの方が、他の命より重いと感じてしまいますよね。さてはて、悟りを得た人ならどう考えるのでしょうか。虫一匹殺さないで生きるなんて、誰にもできません。だって、私達は多くの犠牲の上に生きているのですから。
食べ物だけではなくて、もっとこう、人類史や生き物としての業のようなもので。命の連鎖は犠牲の連鎖でもあります。食べ物や生きる場所など、今後、もしどんなモノの犠牲も必要なく私達が生きられるような時代が来たとしても、過去には犠牲によって成り立った歴史が重々しく横たわっているのです。ずっと。

>うーん、なんて言うのか。
唐鵙が己の価値観に基づいて自分を高めようと思うのと、人に優劣をつけるかどうかはまた別の話しなんじゃないか? だって、唐鵙、アンタ、別に人間は特別だって、そんなに考えてないだろう? 人間はただ知性が複雑に発達しただけの動物だって、そんな風に感じてるんじゃないか。だったら、同じ生き物同士、命の奪い合いの中にいる事こそ特別な事じゃないだろう。そもそも、価値観はどこに価値を見出すか、そしてその優劣で価値を計るかだ。他人を計る物差しは、ないとそれこそ人間というものが分からなくなる。あってもいいとは思うんだがなぁ。

>これだから、アンタは。
価値観なんてあって当然だろ。
人間なんて、自分の主観でしかモノを見れないんだから、素直に自分の価値観を認めればいいのに。やれやれだ。
だからアンタは迷ってばかりなんだよ。自分がこれだと思う価値観をしっかり持っておけ。軽視や差別さえしなければ、アンタがどう思おうと、アンタの勝手だ。他人は他人で勝手に自分の価値観で生きてるんだから。もういいだろう。

うー、うー、そうかもしれませんけど。
せめて自分は、人を区別はしても差別はしないでいたいです。
他人の個性を認めて、公平に接する。……と言いながら。結構私という人は外観では人の良いように仮面を被っているのですが、内実は結構自分勝手なルールを持っていますし、中々他人を受け入れられません。自分と違う人を受け付けません。

どうにも、外面と内実とのギャップに悩んでしまうのですよね。
これで大きな声で「私は偽善の心なし人でなしだ」と開き直る事が出来たら楽なのでしょうね。でも、理想はいつだって私に付きまといます。私は一体何を目指しているのでしょうか。自分の価値観に踊らされていて、ある種、滑稽ですね。
でも、こういう人間がいても良いだろう、なんて自己擁護的な思考が浮かんでもきます。渾沌とした己の心に振り回されながらも人間としてどうあるべきかを模索した一人間。そんな、私という物語の一つくらいあっても。そして、何だかんだでこのような自分の役所を愉しんでいる自分もいる事はいます。反省が一転。私という人間は随分、本当に、どうしようもない碌でなしですね。
でも、そんな自分でもこうして生きている以上は大事にしてあげたい所。私は私一人の精神で生きているのではありませんから。同じ”私”が幾つもいて、混乱する事もあります。と、それがこうして押し合い圧し合いの思考の迷子状態にしているのかも知れません。そう気が付いた所でどうにかできるものでもないですけれど。

とにかくです。私は、自分勝手な、どこにでもいる人間だという事がまた浮き彫りになりました。こうして自分がどんなに愚かしい人間なのかを世界に向けて表現できるブログは、本音の掃き溜めとして本当に有難いものです。秘め事はどこかで吐き出して、楽になりたいという気持ちがあるものです。それが私はこうして文字に起こして、只々自分の思考をだらだら書き綴る。これが自己表現なのでしょう。そして、知らなかった自分に気が付き、反省してまた生きる事に臨む。趣味であり、習慣でもあります。

軽い解離ないし離人、いえ、現実感消失も含んでいる私なので、
こうやって自分の記録をし、それを読み返す事で、過去の自分との連続性を保っているのです。一秒前の自分がどんどん現実から切り離されて、全くの別人のように思えてしまうのです。同じ自分だというのにまったく他人事です。これもカウンセラーの先生に指摘されるまで、その異常性には全く気が付きませんでした。この所は大分よくなってきたとは思います。やはり、統合失調症と診断される以前から、私は色々とケアが必要だったのだなぁと思います。

と、閑話休題
何だかんだで変える気のない私の価値観はそのままに、自分はこういう人間なのだと受け入れるしかありません。理想と実際のギャップも、甘んじて受け入れましょう。そして今日も誰かの命を頂いて、己の命を長らえさせている自分を見つめて生きます。
本当なら命に価値の違いなどないけれど、人間も生き物らしく自分中心に優劣つけてものを見る。同じ人間同士なら、区別はしても差別はしない。自分の価値観のスイッチのオンオフもコントロールできるようになれたらいいですよね。もっと柔軟で寛容な心を身に着けたいものです。

今日の独り言でした。

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