色々と言った後でなんですけれど、どれが私の本心なのか分からなくなってきました。米の教えを信仰する私、現実に立って就労移行支援事業所に通う時の私、普段何気なく生きている私。はたしてどれが本性なのか?
その問いに関しては、なんでも人には幾つもの霊が掛かっているのだそうです。肉体を動かすのは、なにも一つの霊ではないのだそうです。幾つもの想念が肉体を動かすのです。
だったら、どれも私であって私ではない、ですか。
確かに、今の自分は一体何者だろうと迷う事があります。
場面場面で臨んでいるのは、違う自分なのではないかという気持ちも偽りではないのでしょう。それにしても、以前は簡単に人格交代が起こっていましたが、最近はそういう事もなくなりました。
もしかして、回復期に近いのかもしれません。
もっと彼らとは交流していたかったのですが、それもしょうがない事ですね。幻覚だったのか、と分かる日が来るのかもしれません。
もし彼らが不思議な存在だったとしても、いつまでも自分の元に繋ぎとめておく事もできません。彼らには彼らの帰るべき場所があるのでしょう。それを、私は黙って見送る事しかできません。
ところで、結局のところ、何時まで世の建て替えに備えていればいいのでしょう?やはり自分の寿命が尽きるまでという事でしょうか。話しによれば、言葉の君はその大嵐の中を突破されるという事なので、それが起きるともなれば、2、30年の内には起きるのでしょうか。きっとそうでしょう。米の教えを読み返していると、どうにも立て替えがすぐに起きるのではないかという感覚に支配されるのですが、実際の所はどうなのか分からなくなります。
その頃の私は何をしていることでしょうね。
流石に自活しているでしょう。そうでないと私が困ってしまいます。私の当面の目標は、働く事です。まだ達成できる時期にはいませんが、然る時までにはきっと、働いていたいです。
今日の雑記でした。