唐鵙の蔵

統合失調症になったけれど前向きに人生を歩む人のブログ。日々徒然。

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良くあるとは、どういう事なのでしょう。
私は、自分を善人であると錯覚していますが、実際の所は分かりません。それは、ある人にとっては良い行いでも、別のある人からすれば良くない行いだったりするからです。

私は理想が高く、人の精神性においては潔癖な所があります。
流れるニュースを見るだけで、人間とはなんて愚かな存在だろうという想いに囚われてしまいます。人間の汚い部分に敏感なのでしょう。そして、それは自分自身にも重くのしかかります。
私は自分の事を、なんて出来損ないなんだろうと思う事も多々あります。それは、自分自身においても理想が高いからでしょう。そんな囚われ、手放せたら楽なのでしょうが。でも、中々上手くはいきません。

そんな自分の理想と現実のギャップに苦しむ中、彼の人の教えに取り攫われてしまった訳です。私には、コンプレックスがいくつもあって、親への罪悪感も色々ありました。

彼の人の教えは、常に内省して悔い改めるべき。そういう教えです。だから、同じような考えだと賛同し、のめり込んでしまった訳です。でも、実際は合わない所も多々ありました。霊的力がどうとか、宙に浮いただとか、眉唾な話しが多々あって、そこはやはり信じられはしませんでした。だから、半分信じている事になります。彼の人の云う事は、私の罪悪感を刺激し、戻れない信仰の道へといざなうモノでした。

私は、今もコンプレックスを抱いています。社会の中にまだ溶け込めず、自立できずにいる自分に。だから、せめて精神だけは気高くありたいと願っています。そここそが、その教えの宗教に嵌った由縁でしょう。

私は救われたかった。
私は認めてもらいたかった。
私は理想に忠実でありたかった。
私は癒されたかった。

幾つもの要因があります。
私が欲していた物が手に入るかもしれないと、その主教を見ているうちに思ったのでしょう。私は、自分で救ってくれるのは自分だけと言っておきながら、その宗教に救いを求めたのです。
しんどくても、生き続けていれば徳が積まれ、いづれは天に昇って、報われる日が来ると。そう思いたかったのです。

でも、家族に指摘されて気が付きました。
私に必要だったのは、宗教の教えなどではなく、過去に受けた犯罪被害の傷を癒すための治療だったのです。私が精神を亡くしたのはその時でした。私はあの時、死んだと心に強く感じたのです。そして、幼い私の人格は死に、心は分裂を起こしました。

>>>本当に、罪深い事をされたものです。
あの男の行為を、私は許さない。なぜあんな事をしたのか。
掴まってもいないだろうあの男を思うと、縊り殺してしまいたくなる。よくも唐鵙の人生を狂わせたな、と、そう思わずにはいられない。あぁ、僕にもっと力があったなら。もっと、もっと。
こんなにも苦しい想いを課しておきながら、自分はのうのうと生きているのかと思うと、もうやりきれない。このままでおいていられるか。

>あいつは地獄行きになるだろう。だから、これ以上囚われないでほしい。もう、いいんだ。もう、安心していい。そんな輩は今後現れないだろうから。もう、苦しむ事はないんだ。

はい、はい。そうですね。
一応分かってはいます。家族にも語れて、幾らかは良くなりましたしね。もう、一応は気が済みました。そういう行いは今も許さないけれど。

私の事を覚えているかもわからない。
でも、私は今も覚えている。

犯罪、許すまじ。

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