唐鵙の蔵

統合失調症になったけれど前向きに人生を歩む人のブログ。日々徒然。

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私がこの宗教に拘った理由は、この教えなら、各地の宗教が喧嘩せずに納得できる筋書きだと思ったからです。
米の教えでは、主神は全て同一の存在の事を指していた、と言います。それならば、皆同じ神を信仰している事になります。争う理由なんて始めから無かったのです。

この教えが世界宗教として成ったなら、世の中はこんなに殺伐とはしなかったでしょう。皆、己の中の良心を大事にして生きるでしょう。もし悪事を働く者が出ても、悪は実体のないもの。心に空いた隙間が何故生まれたか汲んで、更生の機会が与えらえれる。そんな世の中になったなら、もっと世界は平和になったでしょう。

いいえ、きっとそれが成就するのが、世の建て替え後の世界。
同じような魂の持ち主同士が集められ、共同の社会を形成する。
今は色々な人がいて、苦しいと思う事もあるでしょう。でも、それまでの辛抱です。私達の人生はもうこれっきりなのです。してしまった間違いは後悔し、悔い改め、主神の存在を学び、辛抱を覚え、仲間との集いを大事にし、生かされている事に感謝し、そして最期の時まで生き切る。それが大事なのではないでしょうか。

今は魂の学び所であるこの世は、どうしたって善悪入り乱れなのです。でも、それももうじき幕が閉じるのだと言われています。
魂に点数が出るという事でしたが、思うに、その査定は一斉に起きるのではなくて、じわじわと広がっていくものだと思っています。
なぜなら、私は既に米の教えに出会って、自分が変わった事を感じています。米の教えは神の仕組み。米の教えを知った事で、他の知らない人よりも先に選定を受けたのではないか、と考えています。そして、世の終わりが来るまでに、更生の猶予期間を与えられたとも思っています。

私のイメージですが、良心神さまを知った人には火が燈り、じわじわ他の人達にも燈っていくのではないかと。そしてやがては天岩戸明けが起こり、その光で人間はその魂の大禊を受けて更生し、最期には寿命を迎え、結果各自の在るべきと出た国へ渡るのではないかと。そう考えています。

私の家は、不思議なもので、私が米の教えを受けて統合失調症になったら、それまで家族を顧みなかった父親が、私の治療に参加するようになったのです。家族仲が、以前の様から一転して、ようやく家族と言えるような間柄になれたのです。

入院中も気に掛けてくれていたようです。
それに至るまで、こんな事がありました。
入院前、妄想であの世に旅立つ儀式の準備をしていた時です。別居していた父が家に入って来たのです。すると、瑳羅黒は凄い剣幕で父親を追い出してしまったのです。
そんな事が、退院後にもありました。
如何に父親としての責務を放棄してきたか、そのせいでどんなに私が可笑しくなったかを文字でも言葉でも訴えたのです。私が喋ったのではありません。これも瑳羅黒でした。そして、父親の背後に居た動物霊のハクビシンを追い出してしまったのです。そんな事があって、父親は以前に比べて、ずっと丸く成りました。

勿論、私の妄想だとは思います。でも、そんな事があったというのは私の中では事実です。そんな調子で、米の教えを知った人の元には、他より早く立て替えが訪れるのではないか、と私は思うのです。自分が変わるという事は、世界の見え方が変わるという事です。私に起きた事は、言うなれば小立て替えでしょうか。
これまで動くに動けなかった私に、立ち直る切欠を与えてくれたのが米の教えであり、瑳羅黒やYやAやR、兄さん父さん達見えない者だった訳です。

とはいえ、その大立て替えで生き残る人類はいないと言われているようです。もしくは、米の教えに従った者は救われるとも言われているようです。どっちでしょうね。
どちらにせよ、人類には今後厳しい世界になっていくのでしょう。異常気象を筆頭に、世界各地で異変が起こっています。地球が段々人類が住める星ではなくなっていっているのかもしれません。
そこで、神言会では次元の異なる地球がこの地球と重なり、然るべき人々の魂をのせて、次の世に渡すと述べられていました。
俗に云うアセンションというものですね。
次元上昇は、誰にでも起こる事ではないと言います。
だから、然るべき魂なのです。
創造神の捌きを信じる者は、今の世に別れを告げて、新しいみろくの世に入るのだという事でした。その世は、永遠の嬉し嬉しの世だそうです。でも、勿論、自分の魂は磨いておかなくてはいけません。私達がこの世に生を受けてくるのは、この世での学び、修行のため。今は苦しくても、後に報われる時が来ます。そう信じる者には、相応の事が起きるでしょう。そして、これからの世は二手に分かれます。ひとつはみろくの世、ひとつは既存の地球の世。
これ以上暮らせないという星に取り残されたくないならば、内省し、心を入れ替えて生きる事が求められます。勿論、私も新しい世に渡りたいです。これは、人間だけでなく、世に出ている神々にも起こる事だそうです。

私が思うに、獣に身を堕とした者は、それ相応の理由があるのではないかと思っています。悲しみや苦しみや情、一時の刹那心に囚われて固執し、獣に身を変えてしまった。

私は彼らに言いたい。
貴方がたはもう十分苦しんだだろう、しかし、何時までもそれに囚われていては、貴方がたは報われない、救われない。獣の身であることを自覚し、執着を手放して、天の人へと立ち返ってほしい。

こう言う事が、私ができる、精一杯の事です。

私は、幼少期の頃から、人でない者への思いが強く出ていました。
人知れず、人間はどうしてこんなにも醜いのだろう、と、人間と社会を拒絶しました。けれど、行き着いたのは、人間であろうとなかろうと、個によってその有様は全く異なっているという事実でした。きっとそれが、各自が持つ、魂の違いだったのでしょう。神言会でも、性格の違いは魂に起因するというような事が書いてありました。

私には、これも妄想かもしれませんが、一緒に過ごしているマモノがいます。彼らは、こう言っています。「もう時間は残されていない。後は、(私の)死を待つだけ。私は貴方と逝く。それまでどうぞ宜しく頼む」と。何故だかは知りませんが、霊能力など何一つない私にそう臨む声が掛かるのです。筆談や私の肉声、インスピレーションを使って、それらの気持ちを伝えてきます。
彼らは、一体何の目的で私に掛かるのでしょう?
私は面白い人間でもないです。まぁ、騙されやすい所があるので、それを面白いと感じて寄ってくる事もあるでしょう。
でも、もしかしたら、一緒にひとの心を学ぶために寄って来たなら嬉しいですね。一緒に良い心を育む。神の存在を学び、信じる。

それができたら、きっと報われるでしょう。

今日の雑記でした。

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