唐鵙の蔵

統合失調症になったけれど前向きに人生を歩む人のブログ。日々徒然。

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今回はまだ正気な方です。
彼らは私の副人格という体で書きます。

私という人間は、まだまだ彷徨いの中を歩いています。
彼らからは、いい加減に目を覚ましたらどうだと、そう言われています。彼らは私と根源を同じくする副人格です。その彼らが言う事ですから、そうなのかもなぁとは思うのです。しかし、小心者な私は、死後の審判が怖くて神の存在を否定するにはたどり着けません。というか、私にも信じている世界の姿が存在しているのですが。いつか気が付いた事です。個が集まった全体を、私は神と呼びます。そして全体意識は個の一つ一つに宿ると。

それをいうなら、米教でもいいじゃないかという思いもあります。創造神の分魂こそ我々の魂の核たるものだと。その根源が主神だと。
確かにそれでもいいのです。なぜ引っかかりを覚えているのかが分からないのです。私の心の何処かで、そこに書いてある事は何かが可笑しいぞ、と誰かが訴えているようなのです。

それは、妄信もまた怖い事だという意識が働いているからです。
盲目になると、人は何をしでかすか分かったものではありません。入院した時などは、まさにその通りでした。そんな私ではありますが、それでも何とかブレーキが働いているようです。

この所、これは矛盾しているのでは?と思う箇所を見つけてしまいました。それでも迷っている私も私ですが、別に、神さまを信仰していて困る事もないのだから、今のままでもいいではないかと思わなくもないです。信じる勇気も、否定する勇気も、私には不足しているようです。中途半端です。

こんな話も、もう何度目でしょうね。
いい加減、自分の心が見せている幻と思うか、それとも神様や神秘を信じるか、どちらかの道を選べばいいのに。ずっといったり来たりを繰り返している気がします。

迷い続ける事も、自分だなぁとは思います。

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