唐鵙の蔵

統合失調症になったけれど前向きに人生を歩む人のブログ。日々徒然。

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私は、私なのですが、それを揺るがされているのが唐鵙である私です。自我機能の障害と分かって以降、あれもそれも自我機能の障害だったのか、と気が付かされる事ばかりです。

自分の中に別の人物がいる事は、私にとっての当たり前でしたが、それも自我機能の障害……?どうしてそういう事が起こるのでしょう。

なぜなら、自分の中に誰かがいるというのは幻覚な筈。自分がやっている、考えている事も、自我の境界があやふやであれば、その意識の出所が外で起きた事と認知してしまう事もあります。それが、交代人格の正体と言えるでしょうか。そうかもしれませんし、そうでないかもしれません。

でも、それだけでは交代人格は成りませんよ。だから、違う所に我々の本性はあると思います。

意識には四つの窓があるという話しがありましたね。
そう、自分だけが知っている自分、自分と他人が知っている自分、他人だけが知っている自分、そして、自分も他人も知らない自分の四つです。

これが何を意味するかといいますと、これだけ知らない自分の領域があるのだから、なぜ交代人格が生じるかなんて、私にも唐鵙にも分かる訳がない、とそういう訳です。端から投げっぱなしです。そんな事分かる訳がないのです。唐鵙、諦めて下さい。我々が何故生まれたかを考える位、雲を掴むような話です。/誰か

そうですか、なら、やめときましょう。

あまり続けると、今の自分の人格さえ別の人格とカウントしそうです。危ういので、止めておきます。過去にそれで何度も交代人格が生じていますからね。今はもう回復に向けて進めたいので、悪化させるような真似は避けたい所です。

それにしても、初期の投稿を見ていると、それなりに回復してきているんだなぁと思えます。当初は、いかにも霊の仕業だとか神がかり的に考えていたのが分かります。そう思いたかったのでしょうか。特別な事は魅力的ですからね、私も酔ってしまったのでしょう。

でも、今は違いますね。
妄想と分かっていながら、まだそれを拭いきれないといった所でしょうか。しかし、しょうがないでしょう。だって、私にとって見えない彼らは自分の認知の領域に存在しているのですから。認知しようがしまいがいると彼らは言います。それも、まだまだ続くようですね。

彼らとのやり取りは、主にこの記録の時間に良く起こります。見えないので、その時間くらいと言葉でのやり取りくらいしか接触するタイミングが無いのです。

だから、普段の私達は見た感じ一般の健常者とそう変わりません。いう事も普通ですし、偶に落ち着きなくソワソワする事はありますが、基本は、普通です。

それが崩れるのが記録時というのも不思議ですよね。物を書いている時というのは、意識を集中させますし、変性意識の状態になりやすいのかもしれませんね。

文字を打つ時には、何故そうするのか分からない身振りをする事が多いです。これも、自我機能の障害のせいなんでしょうか。仕事を始めたら、奇異の目で見られそうですよね。困った事です。

だからといいますか、やはり障碍者雇用枠で働けるなら、それで良かったのでしょうね。健常者として働けるならその方が良いという考えもあるでしょうが、私としては、容赦してもらいながら働けた方が気が楽です。

HSPの事もあって、私は人の要る場所では生きづらさをどうしても拒否できません。仕事だからといって、オフにする事も出来ませんしね。難儀な事です。

私はおそらく、もう数年以上前から治療が必要な人だったのだと、今自分の人生を振り返るとそう気が付かされます。だから、入院した事は、ある意味私にとって良い事だったとも言えます。それが無くては、今の理解してもらえる暮らしは実現しませんでした。

世の中、何が良いと出るか分からないものですね。
では、ここで。

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