唐鵙の蔵

統合失調症になったけれど前向きに人生を歩む人のブログ。日々徒然。

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自我機能の障害と知ってから、統合は早く進むようになった。
Yという存在こそが、かつて統合の取れていた時の、”見えない彼ら”の元々の塊なのではないかと思い始める。だから、それぞれ統合していった結果、ケイオスとYとIsが統合した結果の存在が在る事を知る。これで、かつてのYに戻るのかは分からない。しかし、これで統合が戻る訳ではないのは知っている。自我機能の障害のうちの、ほんの一部分でしかない事に躍起になっている事も自覚している。しかし、どうにもならない。この、交代人格の存在はどうして生じたのだろうか。

しかし、そもそも高校初頭の春にYと出会っている時点で交代人格の存在は生まれている。離人症も一緒に発症してきている。だから解離性同一性障害も発症していると思われる。それ以外は、陰性症状もついてきた。何もやる気がせず、未来に希望など持てなかった。Yだけが救いだったから、仕方ない。自己救済人格の存在も、解離性障害に当るのだろうか?分からない。

そもそも、私の人生を振り返った時、可笑しくなったのは学童期に犯罪に遭って以降の事だ。いや、更に遡れば、幼児期にも行きつく。HSP持ちの人間に、あれこれ色々な環境の変化や刺激がありすぎた。宜しくない。結局、生まれつきの事になる。そんな事、どうしろというのか。いや、犯罪被害に遭って、そこで充分なケアが有れば多少は変わっただろうか。……。いや、ないな。私は些細な事で傷を受けてきたから。それこそ本当に些細な事だ。繊細が過ぎた。トラウマばかりの世の中だ。

しかし、障害を発症していたとして、その救い主がまた障害の一症状として現れたYだった、と。もはやどうしたものか。

障害は障害を呼ぶのだろうか。私はどんどん解れて(ほつれて)いくように可笑しくなっていったのだなと振り返ってみて思う。精神病院の世話になるのは結局避けられなかった事だとは思う。何せ、今までの人生を振り返ると、どこも疾患でしかない症状だらけだ。健常だった時の方が少なくて、どこからどこまでが正常で、どこからが疾患だったのかも不明瞭だ。病気と名がつくのは社会活動が阻害されるレベルの事だから、一応健常……と言えるのか微妙だ。もう自分の人生投げていた所があったので、疾患かもしれない。

結局、健常者と障碍者の区切りなんて、無いのかもしれない。
だって、私はいつだって私だった。いや、それすらも明瞭ではないのが私なのだけれど、とはいえ私だ。どこから障害だったとはうまく言えない。そもそもそんな区切りはあるのかという話しだ。障害だけで己は語れない。だが、私の場合はYと過ごした生涯が自分だ。そんな私は一体どうアイデンティティを確立すればいいのか。
何せ、障害、といってしまうが、障害=Yだ。Yは私と同等で、Yがいるから私はいた。それ以外に自分の代名詞となる社会的役割名を上げる事は難しい。宅の唐鵙というのが私の代名詞の一番だが、それ以外は途端に危うい。

結局、私は始めから障碍者だったのか?

気が付かないだけで、最初から発達障害でもあったのでは?

考え出すと切りが無い。一応、統合失調症に罹るまでは健常者でいるつもりだが、まぁ、今更だ。私に区切りなんてものはなかった。生まれついての気質と、後付けでトラウマが追加されて私の精神は見事に拉げた(ひしゃげた)と、そういう事だとは思う。

だって、生まれついての事だけで人間できるものじゃない。勿論、芯となる要素ではある。その後、どう育つか。それも大事な事だ。私はHSPとINFJ的性格を以って機能不全家族の元に生まれた。愛着形成は無秩序型に落ち着き(落ち着いてない)、その後社会に揉まれて生きて、育った結果が御覧の有様である。

自分の生まれが悪かったなんて事は思ってはいない。むしろ、良かったはずなのだ。それなのにこうなったのは、もう生まれ持った気質とランダムに押し寄せたトラウマ体験が悪いと、もはや運が悪かったのだとしか言いようがない事だ。私はそう思う。

私の両親もご先祖も、似た、というかそういう気質だったらしい。両方の神経質で生きにくいマイノリティを私が引き継いで生まれてきただけだ。誰にも、どうにも出来なかった事だ。もし知れていたら、何とか出来たとしても、今の私でなくなる可能性があったなんて事は、考える事は恐ろしい。だって、生まれなかった可能性だってあるのだ。それは死以上に恐ろしい考えだ。かつては消えたいとも思った事はあったが、今はこう思える。だから私は生み出してくれた両親に感謝したい、いや、感謝している。この世に生を齎してくれて有難うと。

そう、私は私だから良いのだ。こんな面倒でこんこんちきな私だから好きなのだ。それは、多少、なんで自分はこんなどうしようもない奴なのかと責める時もある、が、どうしようもなかった事に気が付くと、諦めがつく。私はこうだから、しょうがない。いつまでも自分を否定していないで、よりいい方向へ近づけていこう。そう思える。開き直りも、時には重要だ。

生きてきたから、好きな物に触れられた事が事実として転がっている。生まれてきて良かったなぁと思える事だって沢山ある。それは、他でもない私だからそう感じられた事だ。当たり前なんて、ないのだから。

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