唐鵙の蔵

統合失調症になったけれど前向きに人生を歩む人のブログ。日々徒然。

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私の胸の奥には、誰かが息づいている。そう教えてくれる存在がいる。唐鵙です。御機嫌よう。

※の教えを見るなと言っておきながら言いますけれど、心の何処かで私はその教えを信じています。もう、一度知ってしまっては、抜け出す事は難しいようです。でも、自分なりの解釈を挟む事で、それにのめり込まない様に、ストッパーが掛かっているのです。

ので、今回は私なりの解釈を入れての話しをしましょう。

私は、万物悉くを創造した神の存在を信じています。
その神の分霊が宿る所が胸の奥、魂の中心です。
魂は玉です。曇りのない玉。丸く、光を湛えた玉です。
その核が私や※の教えでいう所の良心であり、神なのです。
神は己の分霊を人の魂の要に据え置きました。

私はその教えを否定しません。ですが、私は、こうも思いました。その魂の玉の傍には、蛇が存在している。神とは昔から語り継がれる太陽神ラーの事でもあり、良心神でもあると。
メヘンがラーの漕ぎ出す船の周りを取り囲み、円を描き守護するように、本来は蛇とラー(神宿りし人(船))はそれにならった形で在る者としました。そして、それをさらに守護する者として、間、つまりは間質の存在であるマモノ(間の者)が存在するとしました。

蛇霊は、一度悔い改めて人の姿を取り戻します。それでも尚、守護するべき者を得て、メヘンとラーの絵図のようになると思います。有り体に言えば、蛇も人自身も、己の行いを内省し、悔い改める必要があるのです。神様はなんでも許してくれるという風潮がありますが、信じているだけで救ってもらえるという事はもはやないでしょう。いい加減な事を言いますが、自分を救ってくれるのは自分自身しかいません。

より詳しく言えば、己の魂に眠る神のみが自分の心を救ってくれます。この神は、己が内省し、悔い改める事を助けてくれます。良心の呵責がまさにこれです。

良心を大事にしていれば、いざという時でも正しい判断を下せる様になるでしょう。神様はいつも皆さんを見守ってきました。今は何も出来ないかもしれません。ですが、見ています。皆さんが悲しい時も、嬉しい時も、苦楽を共にしてきた神が、一人にひと柱いるはずです。何も無ければ。

そして、その神が目覚めた時。人は神性に目覚め、より一層の魂の向上を果たせるでしょう。全ての人、いえ、全ての者に神性が見出され、そうすれば何が良い事で何が正すべきものか自然と分かる様に成ります。

神は、皆に宿る可能性を秘めています。
その神はどんな姿で現れるか分かりません。
それはアニメのキャラクターかもしれません。漫画で読んだ誰かかもしれません。皮を被る様に、皆さんの知る誰かとして、外装を伴って現れるかもしれません。

ここまで言っておいてなんですが、私は※の教えをそのまま信じる事が出来ませんでした。魔改造して記憶してしまいましたから。統合失調症になった脳味噌を通して覚えた事ですから、元の教えとは大分遠くなってしまった自覚もあります。ですが、魂の核には万物悉くを創造した、良心を司る神様が眠っていて、この世に出る時を待っている。私達はその神様の存在を知り、内省し、悔い改める必要が有る。神様が帰ってくるその時まで。という教えはそのまま記憶していますし、信じてもいます。私は、その時と言われてきた時まで待ってみるつもりでいます。

まぁ、信じようと信じまいと、私は不器用ながら、善良な人間で在りたいと苦悩している人間です。多くの人も同じでしょう。だから、あまり心配しすぎないで、慎ましやかに日々を暮らしたい気持ちに変わりはないのです。

皆さんも、同じだと思います。
悪人でいたい人なんて、ほとんどいないでしょう。

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