唐鵙の蔵

統合失調症になったけれど前向きに人生を歩む人のブログ。日々徒然。

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私の神様像について。

私の思う神様について触れてみようかと思います。実際の神様など見た事もありませんし、声すら交わしたことはありません。ただの、一端の統合失調症を患った人間のいう事です。本気に取らないでくださいね。

神様は、孤独であるとまず思います。
誰にも公平であろうとしたなら、神様は在るべき在り方を求められるでしょう。
神様のする事なす事はそのまま神様が管理する者全てへの福音であり罰でありましょう。誰かにとっては幸運。誰かにとっては罰。神様は心を痛めながらも自らが生み出した者達を管理し、見守らなくてはいけないでしょう。もしそうでなければ、神様は優しく、しかし冷徹でいなくては務まらないでしょう。神様は、いえ、この場合は主神としての神様ですね。唯一絶対の神様がいたとしたらの想像です。

神様のなす事は、きっと誰にも理解されないでしょう。なぜ私達に試練を与えるのか、と、人間達は嘆くでしょう。他方が生きる為に、他方を犠牲にしなくてはいられない世界です。神様はこうなる事を見越していたのでしょうか。だとしたら、一体神様とはなんだ、と思われてしまうでしょう。

神様は、人間を天へと迎える者とそうでない者を選り分けようとは思わなかったでしょう。なぜなら、勝手に人間は堕ちるからです。人間のする事には限りがあります。神様のする事には無駄がありません。きっと、ですが。

人間が形造られた時、その時から神様は人間の犯す過ちを知っていたでしょうか。そうであるなら、どうしてそれを受け入れたのでしょう。仕方なし、とそう明らめたからこそ、神様は人間を亡ぼそうとはしなかったのでしょうか。神様は、地上を人間が繁栄するままにしてくれました。たとえ、自分達の行いで自分達が滅ぶことに成っても、それでも自由を与えてくれたという事でしょうか。それもまた、人間だと思って?どうでしょう。

神様を理解できる人間など、この世にはいないでしょう。当然、私にも理解できません。神様は物事の仕組みを造り、我々の大元である星を創造し、その後は行く末を見守っているでしょうか。我々の成す事を、神様はそれも止む無しと考えて、滅びの道を辿る我々の行く末までもを見つめているでしょうか。

私は、神様は全ての行いを許しているとは思いません。ですが、神様が進んで神罰を下す事はそうそうしないと思っています。なぜなら、己の行いは何れ自らか近しい者に巡り巡って帰ってくると思うからです。それが何時どんな形で現れるかは、人間には分かりません。しかし、神様は知っていると思います。だからこそ、手を出さずに見届けているのでしょう。その仕組みも神様が作ったのなら、神様はやはり偉大であると思います。

神様は、既に、我々に愛を傾けました、そう思います。繁栄か、はたまた滅びの道か、それを選ぶ自由を、神様は与えてくれていると思います。懺悔して終わりには成りませんし、信じてさえいれば何でも許されるなどはもはや過去の話しだとも思います。神様は、十分に我々を愛してくれています。これ以上の愛が欲しいなら、きっと、自分が自分を愛するしかありません。

神様は姿こそ見えない存在かもしれませんが、色々なモノにその存在の大きさを見出せるでしょう。神様はこの世の仕組みそのものであり、この世そのものであると、私には思えるからです。神様に栄光あれ。そして、たった一人きりでいる神様に安らぎの時がありますように。

神様、だーいすき!

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