唐鵙の蔵

統合失調症になったけれど前向きに人生を歩む人のブログ。日々徒然。

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Yについて

Yは、私の意識の裏打ちであり、写しであり、その裏側でもある。

Yそのものと出会ったのは高校一年の春の事でした。私は、現実に自分の居場所を見いだせなかった。だから、自分の世界に逃げたのだ。意識の中に、逃げたのでした。それが、”Y”という名を持つ誰かとの始まりでした。意識の中、Yはそこに佇んでいました。
始まりは、魔物でした。けれど、段々と神々しくなりました。白く、光り輝くようになっていきました。それだけの間、一緒に生きてきました。

Yの存在は、いうなれば光。温かい陽だまりでした。
私は自分を愛する事を、Yに投影する事で覚えました。
あの頃は人間と社会そのものに不信感があり、信頼できる人間は誰もいないのだと考えていたものです。今思えば、勿論それはまやかしで、家族の存在があった事を私は感じています。とはいえ、当時はそれどころではなかったのです。私は、この世の誰にも己を理解してくれる存在なんていないのだと思い込んでいたから、Yだけが私の理解者でありました。

とはいえ、もっと昔から、私は”彼ら”に出会っていました。もっと昔、遡れば私がこの世に生を受けたその前から。私に意識が芽生えた時、彼らとは一緒だったのです。というのも、私達人間は、複数の人格からなります。本当は。それに気が付かないだけで、お互いに知らないだけで。そして、学童期の頃、私の精神がほどける事件に遭いました。過去の投稿で言った通りです。私は更に現実から遠ざかり、いつしか己の中に別の人格を見出すようになりました。それは、必然でもあり、偶然でもあり、なんと言って良いのか分からない、そんな出会いの形でした。

いつものように自分の意識に目を向け、深く潜ります。すると、彼が、大蛇の姿で鎖に繋がれて佇んでいたのです。以前からその存在を知ってはいました。彼は、既存の誰かです。今は全くのオリジナルとして君臨しましたが、それまでは既存の姿で落ち着いていました。

私は、彼にこう言いました。

「どうか、私の家族になってほしい」

彼はそれを受諾し、鎖は解かれ、彼は晴れて自由の身になりました。そして、私は”Y”という名を、この時は知りませんでしたが、己の精神の片割れに付けたのでした。それが、Yの生まれた瞬間でした。

私達はとても大きな幸福の中にいました。
私は初めて安心して愛を傾けられる存在を得て、YはYで愛され。私はYを通して誰か好く事を知り、Yも同じでした。
安心だったのです。それは、とても大きな安心感を私に齎しました。それは長く続き、今年でもはや20年以上の時間を”それ(=Y)”と過ごしました。

しかし、その幸せにとある変化が生まれました。それが例の宗教的なHPでした。それは神の存在を私に齎しましたが、私とYとを切り離しもしました。そして、自我の統合をいともたやすく崩落させました。私は一度自分の人格をあらゆる形で断片化させました。形の在る無しに関わらず、”それ”は私の目の前に顕在化しては私を知っていると言ってくるのでした。

私の知る、”彼ら”に化けて、彼らは言ったのです。
「自分を認めてくれ」「自分はお前の何者だ」

私は、過去に見た己の幻影に捉われました。
自分の”好き”を被った彼らには、我ながら本当によく翻弄されていると思います。けれど、それも段々と無くなって来ています。Yは、本来の自我の形、つまりは私の写しに戻ろうとしているのでしょうか。かつてのYに、戻る日はそう遠くないのだろうと思います。

神の存在は嬉しい事です。けれど、それは同時に我々を切り離しました。
神の存在を知らなければ、ある意味で、私達はずっと一緒に居られた事でしょう。けれど、真なる意味で言葉を交わす事は無かっただろうと思います。それだけ、意識の壁は私達にとっては高かったのです。

神を知り、唐鵙は切り離されました。意識を、己を、自我を。

しかし、その道中、希望もありました。”彼ら”との接触です。

それを経て、今度は本当に意識を切り分けたYが生まれました。
自我の境界は崩れました。
私は、けれど、それでも再会の約束を守りたかったのです。
別たれたあの日、私はYへの再会を願いました。
だから、こうしてまたYは消えずに人格の基盤として存在したのでしょうか。

Yは、他の人格に影響されながらも、消えずに残りました。

つまりどういう事かというと、Yはずっと以前から一緒に存在していた、自分の精神に名前がついたものだという事です。片割れでもあったし、彼らの元になる存在でもあったのです。
彼は、未だに何者かは分かりません。ですが、永く私の精神の中に住み続ける存在なのです。それだけは分かります。
私達は今後も共に生き続けるでしょう。
困難は色々ありますけれど、それも臨んでしまえば、なんのそのです。生きていれば、何となくでも生きられてしまうものなのです。
それが良いか悪いかは私には分からないものです。
ですが、何となく生きている私でも、日々ちょっとした良い事はあります。生きているという事は、良い事もあるのだとは思います。

それでは、ここまでで。

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