唐鵙の蔵

統合失調症になったけれど前向きに人生を歩む人のブログ。日々徒然。

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「私」の多様性について。「私」=私達。

私という人間には、多くの面がある事は依然からの記録でも書いていたと思います。そんな、色々な面をひっくるめて存在している「私」という存在はとても不思議で面白いです。

かつては私だった誰かが、今では分かたれてイマジナリーフレンドのようになっていたり、そのイマジナリーフレンドが私という人に個人を認められた上で、異心同体のようになったりと、「私」という自己認識は渾沌としています。もはや名前は意味を成さず、全部「私」という自己認識としてひとまとめにされています。これもある意味では統合という事なのでしょうか。いえ全然、統合なんて出来ていませんけれども。私が彼らの区別がつかなくなっただけでもあります。自我が中途半端に癒着してしまったようなものでしょうか。

>分かれても、良い事ないし。

何ですかそれ、詳しく。

>だって、皆平等にと思ったら、結局こうなった。
意識を向けて貰いたいんだよ、皆。意識の底で待つなんてまっぴらだよ。だったら、没個性になったとしても、区別して貰えなくても、「私」ならいつでも一緒にいられる。だから、僕達は「私」を名乗って、集合した意識として君の傍に居る。

一人でも複数。そんな意識と一緒にいるから違和感を感じて、私は一人ではないと思うのですかね。違和感。自分ではないという感覚です。一つの身体に複数の意識。潜在意識のもと、私という主人格の席の隣に誰かがいるのです。それは絶えず形を変え、それでも私という存在から離れるつもりはない、と。

自我機能の障害のせいもあるのでしょうか。
私は自分という内的世界の中に、多様な自分を認める事で「私」という集合体のような感覚を味わっています。幾つもの「私」がいて、一人の人間を動かしているような感じです。
「私」の存在に疑問を持たないのかとなると、ありのまま受け入れている感じです。何せ、「私」が勝手に語りかけてくるものですから。
そう、勝手に。自分で意図しない言葉が自分の口から出てくる様は、自分でしか感じ取れませんが、不思議な心地です。
私は自分との対話をよくします。一人芝居を語ったように思えますが、それは異なる自分の一部分との接触です。未知の自分に向かい合う時、私は一人で成り立っている訳ではないと気が付くのです。

「私」は、いつも私の事を見ていたいと言いました。
もう、米教からはほぼ手を引いています。私の信じる事は、この世界が当たり前ではない事です。そして見えない隣人達がいる事、多様な神の中でも根源の神と内在する神の存在がある、その事を信じています。ですのでこれは個人に降りた一介のイマジネーションです。瞳が、眼が、見つめてくるのです。光を放っている眼のイメージが常に付きまといます。

潜在意識から生まれたであろう彼らの頭上に、その眼はあります。
一体どういう意味であるのか、詳しくは分かりませんが、誰かが私を見つめているのです。それははたして私の意識内のモノか、それとも外から来た何かなのか。
とはいえ何が来ても結局そのまま認めるだけですけれども。私は、彼らの性根が私に限っては善である事を知っています。
何せ、私の意識から生まれた彼らです。揶揄われた事はあれど、冷たい感情を向けられた事は一度としてありません。潜在意識を基にしたインスピレーションのままに、彼らは行動していた筈です。彼ら自身が潜在意識の化身の様な者なので。
私のコンプレックスを笑い飛ばし、感情の迷いから拾い上げ、時には私の代わりに理不尽に対して怒り、脅威から護る。そして自分が掛替えの無い存在なのだと胸を張り、「私」への親愛を叩きつけてくる。彼らがやって来た事というと、こんな事です。彼らは根源を同じくする「私」への自己愛のままに行動しているのかもしれません。
だから、あの眼がなんであれ、怖い事にはならない。こんな彼らが生まれたもとの潜在意識から来たヴィジョンですから。「私」を見ていたいという言葉と共に現れた眼です。それは多様な「私」の内の何かなのでしょう。

さて、「私」の場合は、こうして多くの自意識が私と認識されずに解離を起こしているのだと思います。それぞれの仮面に人格としての席が用意されてきたものが、米教を通して自己の内にあったものが外に出る切欠ができたのです。内在する神は根源の神の分魂。そうした言葉によって、私は己の内にあったものを無意識に自分の顕在している意識の領域に持ってきたのでしょう。

意識の眼。
「私」という人の歩みをひたすら見続けている「私」という存在。

それは、気が付かないだけで、どの人も色々な副人格を「自分」という認識の下に引き連れて生きているのだと思います。名も無い誰かが集まって、一個人は出来上がっているのです。
私はそんな見えない隣人、同居人達に気が付いてほしい。
その存在は気が付かれなくても、基本人格の為に色々仕事をこなしてくれているのです。そして、彼らは基本人格の事を護り、導き、励まし続けてくれています。

意識は、自分なんて認識など持ちません。自分でいる事が当たり前に感じるからです。
でも、私という存在を、私は当たり前だとは感じなかった。
それは、学童期の事件がきっかけでもありましたし、自分を人間だと思いたくなかった時期のせいでもありました。私は私という存在である事を、半ば拒否していた事があったからこうなったのでしょう。当たり前に自分を主張出来る人を、私は良いなと思います。
何も疑わず、自分は自分だと言えるなんて、凄い事だと思います。

何だかんだ言っていますが、自分の領域と誰かの領域の区別は辛うじて分かります。ただ、私という存在は複数の意識で出来ているのだなぁ、と日々思います。誰に言うでもありませんが、私の生涯においてはそれなりに大きな学びです。誰もが自分は自分だと思える訳ではない事を知りました。それならば、一層自分という存在を大事にしないとなとも思います。

今日の雑記でした。

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