唐鵙の蔵

統合失調症になったけれど前向きに人生を歩む人のブログ。日々徒然。

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また彼の人の教えを見てきました。神様は言葉を司る、万物を形作った、たった一柱の”神”の事。それを信じる者は、その神さまが救うと言ってくれているのだそうです。

……救うというと、人を救うという事はどういう事なのでしょう。

私の場合、誰も憎む必要がない、悲しみに暮れる事が無い心の平穏を望みます。そして心身が健康で在る事。健やかな精神で在る事。その状態にしてくれる事を、一般的には”救う”というとは思います。

そんな世に渡してくれる神様であるなら、それはもう付いていきたいです。お金が欲しいかと言われると必要分なら欲しいですが、この神さまはそういった現世利益を齎す存在ではなくて、心の立て直しを齎してくれる神様です。内省し、己の魂をより美しく磨く事、それを求める神さまです。

だったら他の”カミ”と名の付く存在はなんなのかというと、”守”や”上”の字を当てます。霊的な存在が数多く在る日本です。多神教であるが故に、迷いますが、そう考えれば”創造神”と名の付くスケールの神さまは一柱と言われて、成程と思えるかもしれません。多くの言葉の仕組みで、唯一の神がいる事を示して来た神さまです。

また、良心を司る神様でもあります。
良心の呵責という言葉があるように、この良心が在るが故に私達の善性は存在します。胸の奥、魂の核にはこの創造神の分魂があり、いつも私達を見守っているという事でした。

ところで、私は、自分が幸せだと感じる為には、大事な人が幸せである必要がある人です。せめて、息災で生きていてくれないと、気がかりです。そういう面倒な性格も、神さまにとっての善に値するなら、私は今の自分も、過去の自分も愛する事が出来る訳です。

私の場合ですが、誰かに自分は善良であるのだと認めてもらう事は、自己肯定感に繋がります。それは何故なのかと考えると、そこは私の価値観の話しになってきます。私は、一般的に言われる、善良な人をこそ素晴らしい人だ、と感じる人間なのです。

他者を想い、自分も大事に。心が豊かで健やかな善性を持った人々がいます。そういう人は中々に見落としがちですし、表に出てきません。だから、出会える事も少ないです。でも、あぁこの人は丁寧な優しい人だなぁと思える人に出会った時はとても嬉しくなります。

神さまの渡してくれる世というのが、そうした善良な人間の集まるコミュニティなのだそうです。そういう価値観でしたので、私はこの彼の人が紐解いた創造神を示す教えを信じようと思った訳なのです。

そうですね、ちょっと勧誘みたいですね。
でも、そうしたくもなります。世の大立て替えがあると、彼の人はいうのです。その日はいつくるのかはまだ分かりませんし、私が思うに、結局は一人一人の心が自身の行く末を決めるというだけで、生きているうちに何か大きな災厄があるという事ではないのではないか、とも思っています。

神さまの元に渡る日が来ることを願って止みません。

>そこで思うのだけどね、君、神さまの元に渡ってどうしたいの?認められる事で救われるというのなら、今の世でだってできる事じゃないか。

ぐうの音も出ません。
確かにそうなのですよね。今救われる努力をしろ、と、そういう話しでしょうか。でも、救われる努力ってなんでしょう?自己開示?
人に否定される事を怖れずに、まずは貴方が愛しなさいとか、そういう事でしょうか。

>そうかも。

まぁ、自己開示や自分から愛する事というのは、確かに私には必要な事ですが。何とかやってみましょうか。それで穏やかな世に渡れるというならば。いや、そういう魂胆で善と謳う事には、あまり意味はないのではないでしょうか。だって、良い人は、自分が良い人だなんて、思わないでしょう。

私は、”良い人でありたいと願う人”です。
だから、私の行いは悉くが偽善でしょう。
嫌われたくない、良い人と思われたいが故に人への親切心を捻出する。そういう人間は、良い人でしょうか、良くない人でしょうか。それとも臆病者?それは誰が正解を言えるものなのでしょう。
それこそ、神さまでもなければ正しい答えは出ないでしょうね。
だから私は信じます。自分の価値観の通りに在る事が出来たか、それを審判に掛けてもらい、もう、そういう囚われから解放してもらう事。それが、私においての”救い”ですかね。

囚われというと、私はとある夢を見ました。
絶賛何者かの声が聞こえていた時の事です。
私は一匹の虎でした。その姿で神社の鳥居をくぐろうと思っても、弾かれて通れない、という夢でした。
その夢を以て、私は、「虎の我」では神への道には至れないのではないか、と思い至りました。まぁ、こじ付けなんですけれど。
そこで私は更に考えます。「人は想いに囚われる事でも獣になる」救われるような魂は綺麗な玉の形をしているものなのだそうです。それが毛モノになる。救いが遠のく。

だから、私は出来るだけ、父へのしこりを払拭したいです。
実は、あぁも言いましたが、調子の良い時には普通に、何も感じずに話ができるのです。漸く家族になれてきたかな、と、そう思ってはいました。
まぁ、台無しになる事もありますけどね。
傷は残っていて、フラッシュバックもしますが、一応許しているつもりではあります。一応。

……という感じです。
そんな、今日の私の雑記でありましたとさ。

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