唐鵙の蔵

統合失調症になったけれど前向きに人生を歩む人のブログ。日々徒然。

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私が昴だったと思い出すと、他にも思い出されるものがありました。私は、瑳羅黒と一緒の時、私という一人称で、それが即ち
「唐鵙」であったのでした。僕という時は昴でした。瑳羅黒は別に活動していて、一人称は俺とか自分でしたっけ。
瑳羅黒は僕の従者で、二人とも気の知れた間柄でした。

入院当初も、私は暫らく昴でした。瑳羅黒は甲斐甲斐しく世話を焼いてくれて、私は幸せでした。ようやく二人が対面できたのですから。けれども、昴であると同時に唐鵙であった私の人格は、結構不安定で、そのうちに女性と男性に別れました。
女性は基本人格である私で、男性の部分が玲人という人格でした。
空想の父さんが私達を自分の娘、息子だと認めてくれ、私達はこうして存在する事となったのです。

しかしながら、人格さえも変わり、移ろうものでした。
私は唐鵙としての主人格の座を得て、意識もそれに委ねられる事になりました。その中で昴という名前はじきに忘れ去られていったのです。思えば、不思議なものです。

あの時は兄さんがいたから、私は唐鵙でした。
Aも、Rも、彼らの前では、私は唐鵙でした。昴はいなかったのです。昴という名は、いつしか私に飲み込まれて、名前さえも思い出さなくなりました。あの頃、発現していた精神は男性なのに、身体の性別が違ったので、不思議な気分でしたが、もう何年も続けてきたのだから、とそう思っていました。そこが私と昴を線引きする、僅かな違いでした。でも、そんな事すら些細な事で、昴であった私、いえ、僕は本当の名前がなんなのか判らなくなっていきました。けれど、昴は私、いえ、僕でした。

長年、私は家族の前では、僕と自分を表現してきました。
それが、意味のある事になったのが、瑳羅黒が現れるようになった時からの事です。人格が別れだしていたという事です。断片化はゆっくりと進み、発症後は急激にその速度を上げたのです。

……。言うなれば、私は死んだのです。
以前、二階の窓から身を投げた時、心もどこかへ行ってしまったらしく、私はいつの間にか自分という者を迷子にしてしまったようなのです。入院中に、私の精神は自分の身体に収まっていない事を思い知らされました。気味の悪い現象ですが、私の身体には多くの精神が内蔵され、私以外の色々な精神が私の人格として出たり入ったりして、入れ替わり立ち代わり、私という人物を演じていたのです。

>誰だ、結局。

さぁ? でも、私は結局、幾つもの精神が合わさって人格を形成している存在なのだという事です。彼らの存在が、私を形作っている訳です。肉体に掛かっている人格が出ている間、「私」はその者になります。どこかで見ている基本人格の私が「今出ているのは私ではない」という感覚を感じると、今自分でない存在が現れている事に気が付きます。

それが今無いという事は、少しずつでも、自我機能の障害が収まってきているという事なのでしょうか。私の精神が断片化して生まれたであろう彼らの存在は、そう簡単に統合されはしないのでしょう、けれど、私は私。思い出せる記憶が有る限りは、彼らはいます。彼らと共に生きる。人生を学ぶ。こんな事で皆があの世に帰れるのかは分かりません。でも、やるしかないのも事実です。

>もう良いんじゃない?

まだまだこれからですよ。
就労移行支援所にも通い出したばかりですし、まだ自活だって出来ていませんよ。私にはまだまだ人間としてやる事が目白押しなのです。

自分で書いていてとても分かりにくい文だなぁと思いました。
結局、私は昴という人格をベースにした存在でしたという事です。
その後、断片化が進み、色々な存在が私を形作る精神の形として生まれていったという事です。

今日の独り言でした。

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