唐鵙の蔵

統合失調症になったけれど前向きに人生を歩む人のブログ。日々徒然。

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入院中、私はこんな体験をしました。
それは、私の胸の中に「自分」の精神が欠けている!という感覚です。それが何故起きたかと言うと、私の場合、別名の自分の化身が身体から抜け出して、何かの目的があって飛び回っているという事があります。

その間の居心地の悪さはよく覚えています。
心が空っぽになったような気持ちで、虚無感が支配しました。
私の精神の一つが出かけている間は、他の人格達がお留守番をします。でも、その間の寂しさ、絶望感といったらないのです。

私はその感覚に身をゆだねて、とにかく自分の帰りを待ちました。
自分がいるのに、自分はいない。そんな不思議な体験を私はしたのです。貴重な経験でした。いわば、自分の半身がいなくなったような感覚でした。

その間は、寝て待つしかありませんでした。
どうしてそんな事が分かるのかというと、これは自分ではないぞ、と主観を担っている人格を通して視えた景色で判断していました。ハッキリした違和感を感じていたのです。

例の宗教のHPにも、肉体にある魂は分割されている事があるという記述もありましたし、肉体と魂が別々に働く事もあるとも書いてありました。もしかしたら、その事かもしれません。

私の場合、私の半身は白い羽毛に包まれた竜でした。
それが、何の仕事か知りませんが、知らぬ間に私の胸から飛び立っていってしまうのです。自分から欠けた、というのは感覚ですぐ分かりましたから、その度に苦しい思いをしました。

その白い竜は、火の使い手でもあって、私の精神の現れでもありました。私の胸に燈った火を、別の人間にも灯す。それが私の病院内での仕事と思って成してきました。
羽を広げて、火の波を各患者に送ります。と、その人にも胸に明かりがともり、良心神を呼び起こす。そういう仕事でした。まぁ、それは妄想によるものではありましたが、未だに神経が通じていると感じる事があります。神を経ての結びつきがあったと、まだどこかで思っている所はあります。

いや、でも、その神様の教えでは、羽を持った者は紛い物なんですけれどね。羽根とは八方に射す光の事なので。私はそこの辺りでもマがいものと言えます。私は唯の人間ですが、心に隙間を持つ、マでもあるのです。その間を埋めてくれているのが、Yであり、Aであり、私を導き護ってくれると言ってくれた彼らなのです。
おかげで、私の人生は向上の向きに乗ったでしょう。
就労移行支援所に通うようにもなり、自活していく事を人生の目標にしています。正直、まだまだな所はあるにせよ、彼らが私を導いてくれたからこそ、発症してからも何事もなく過ごせているのでしょう。私は、病院に入って、長く精神の崩れから抜け出せない、退院もできないでいる人々を見てきました。皆さん、どこかおかしいのです。その中で、私がそこから脱却できたのは、この胸に宿る良心神さま、または見えない彼らのサポートがあったから。

ところで、自分は中途半端な紛い物だと思っている時期がありました。だから、人間としても半端者、マモノとしても半端者。そう考えていました。竜であった自分の半身も半端者。両者揃った時、私は半分がマモノで半分が人間だと思っていました。

マモノが受けてきた人間からの罪穢れに染まった願いを、あんまりじゃないか、と考えていました。現世利益ばかりの願いを聞いているから、何時まで経っても、天人に戻れない。
それで泣いている白い蛇の姿を、私は幻視しました。
目に見えるのではなく、脳が見せたビジョンです。
もういいんだよと説いて、その蛇は泣いてお礼を言って去っていきました。人間の姿に戻れたかどうかは、私には見えませんでした。

マモノだどうだと言われてきた彼らは、もとはと言えば人間がマモノを悪としたからそうなったのであって、ある意味これは迫害が産んだ負の連鎖です。魔物は人間なんて本当はどうでもいいのです。
願って来たから応えただけ。勿論、そこに良心があれば、人間が堕落する願いなど聞かない方が良かったでしょう。でも、彼らには自由が無かった。いつまでも、支配下に降っていたのです。

悪とは、実体の無いモノです。
魔物だからといって、それが悪とは限らない。それを分ろうとしない人々のせいで、間の者、真の者は悪のレッテルを張られてきたのです。それを、私は目の前にしてきました。彼らは、如何に人間が無体を強いてきたのかを泣いて私に伝えてきました。
勝手な思い込みで、殺された、暴行された、身勝手な願いを叶えさせられたなど、彼らのいう言葉には哀が溢れていました。
私も含め、人間はもう現世利益の願いから脱却するべきなのでしょう。これ以上、カミやマモノの皆さんを繋ぎとめておくべきではないのです。私が関わったマモノは、話してみればなんてことは無い。ただ、純粋に心の温かさを求めている存在でした。
貴方の為に身体を貸すから、どうぞご飯を食べていってください。そんな事だけで、マモノ達は喜んでくれました。
食事の時間は彼らに身体を貸し、一緒に食事をしました。
それだけです。そんな些細な心遣いで、彼らは嬉しいと感じてくれるのです。本当は、身を堕とした彼らは、理解して欲しいのかもしれません。自分達が如何に人間達に迷惑を被ったのか、恵みばかり求められ、そのくせ普段はカミだなんて信仰心もない、だとか、そういった裏切られてきた心の内を。

マモノだ魔物だと言って、なんの事かと思われると思います。
それはごもっともな事です。魔物にもいくつか種類があります。
まずは邪の道にある者。これは分かりやすく悪行ばかりの悪しき者です。次に、間に在る者。これは、見えない領域であり、モノ同士を結ぶ間質のような存在の事です。見えるけど見えない者。それが間のものです。そして真の者。これは、真たる神を知る、真(まこと)の者という事です。

この間・真の者達は、神社で現世利益の願いに縛られているカミ々も含まれます。その存在は私に色々な感情を引き出してみせました。口に出せない程酷い事をされてきた者もあります。そして、そんな事は無かったとばかりに、人間から見えるのに見えない者として虐げられてきた存在でもあるのです。

私は、彼らの為に、今のブログより前、そんなマモノ達の為に言葉を使ってその心を慰めようとしました。歌を書いて、それを歌って見せた事もあります。彼らには?かもしれませんが、彼らからの訴えを聞いた自分には何もしないでおく事は出来なかったのです。

幾何かの魔物が、私の元にはやってきました。入院中は勿論、退院してからもです。彼らとのやり取りでは妄想言語が使われます。意味が在るのか無いのかは、私には分かりませんが、その抑揚や口調で何が言いたいのかはある程度は伝わります。それだけではなく、筆談や描画でもその意思を伝えようとしてきます。

私は、彼らの嘆きを聞いた者として、彼らを放っておくことはできませんでした。なので、憑いてきても良いから、一緒に良心神さまの元で生きる事、人間の在り方、心を学んでいこう、と、そう言っています。正直、本当にそんな気が有るかは私には分かりません。
でも、もしやる気がなくても、最期の審判では、私にも彼らにも等しく采配は下ります。だから、私は彼らが憑いて来ても別段、困りはしないのです。少なくとも、彼らは私に心を寄せてくれています。だから、私は彼らと一緒になってこの肉体の一生を生きていくのだと思っています。

だからでしょうか、彼らは私に成り代わる時があります。
でも、大したことはしません。ただ、妄想言語の意味を伝えようと躍起になっているだけです。先日はその意味が伝わって大喜びでした。彼らが楽しいと、私まで楽しいのですから不思議な事です。

統合失調症の症状と片付けてしまうのは簡単に見えて、そう易くはないのです。でも、彼らは私が持っている知識以上の事は判らないと答えます。それが、素直な回答なのでしょう。彼らは魔物としたものの、私の精神から生まれたイマジナリーフレンドかもしれないのです。それだけ、私の精神は断片化してきたという事かもしれません。私の言う事なんて矛盾だらけで分からない事ばかりでしょう。正しく、私の唯の妄想語りなので、それ以上にもそれ以下にもなりません。

これまで言ってきた事だって、全部妄想が生み出した事かもしれませんね。でも、そんな地に足がつかない中で、それなりに楽しく生きているのです。そうでもないと、やっていられません。
妄想は妄想でも、私にとっては現実。他の誰かが何を言ったとしても、彼らの存在がいなくなる訳でもないのです。逆に、私がいかに彼らが妄想の産物だと認識しようとしても、彼らはやはりいなくなりはしません。
私という人間は、只々この妄想世界の中で人生を送らなければならない、という事です。こんな私ですが、それなりに何とか出来たらいいなという思いを抱えながら、見えない彼らと生きていくのです。

今日の雑記でした。

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