唐鵙の蔵

統合失調症になったけれど前向きに人生を歩む人のブログ。日々徒然。

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言葉とは、それそのものが神の働きなのだと思い至りました。
私達は神、つまり創造主を知りません。知ろうとして知れるものではないのです。

しかし、言葉を通してならば、その存在も見えてこようというモノなのです。神は言葉で示し申すのです。言葉そのものが神の存在を教えてくれています。

言葉というものは、言うなればそのものがエネルギーです。
それを言霊とも言いますね。私は見える人ではないので、その様は知る事が出来ません。しかしながら、想像して見る事はできるのです。米の教えで言われている事の一部分が、やっと時間を経て腑に落ちました次第です。ようやく感覚として掴めました。
突然、ほいっと感覚的に理解が進んだので、今驚いている所です。
凄い事に気が付いたぞ、といった感覚です。

神言会では散々言われていた事なのですが、実感を伴って理解するには至らずにきました。スケールの大きい話しであるし、自分の見えない世界の話しです。当然なかなか分からなかった訳です。
言われている事を、ただの像として見てきたから、よく解らなかったのでしょう。それが、何故今になって分かったのか?よく考えても分からなかった事が、何となくですが感覚を伴ってきた。嬉しい事です。

言葉とは神を示すものです。言葉で示し申す、すなわち神(かみ)です。その一つ一つが神の息吹であり、エネルギー体なのです。
私たち日本人はそうした事も気が付かないでいるのに、この不思議な神の息吹である日本語を扱っているのです。これは凄い事です。

>私は今までずっと卑下してきました。神の事を。そんな事が神にできるのか、世を救うなど、神であってもできるものか、と。しかし、それならば神の意志も分かろうというもの。私はとんだ勘違いをしてきたものだ。唐鵙が知ったから、この仕組みに気が付いた。どうもありがとう、唐鵙。

?、誰かの言葉のようですが、私には思い当たる節がありません。でもそのまま載せておきます。お礼を言われるような事はしていませんが、この誰かが何かを掴めたのだとしたら、良かったです。

勿論、いくら言葉が凄いからといって、私達人間が出来る事などはたかが知れています。創造主が言葉を使い仕組んだからこそ数々のモノは生まれ、命を宿し、存在する事となったのです。創造主という言葉は伊達ではないのです。

その事に気が付けた事で、私はより一層、言葉を大事にするでしょう。使う言葉に、よく気を付けなくてはいけません。
元々、私は自分が出す言葉には気を付けてきました。それは相手の心を立てるという意味でもありましたが、これからは、神が言葉なりきと気が付いてからは、別の意味でも気を付けなくてはいけないでしょう。神は、言葉。

神言会HPから一部抜粋します。
”神言会が目的とすることは、神は言葉なりき。言葉を創った神様(創造神)がおられることの証明。並びに人の胸の中に宿る魂の存在。その魂の中には、お釈迦様の悟りである人には良心と呼 ぶ神が内在をする。これらを知らせることだけを主眼として来ました。”

それが全てではなくとも理解できる日がくるとは何とも僥倖です。
理解するまでに約一年。その間、統合失調症すらも発症。
それを乗り越えて、私は今神が言葉なりきの実感を少しですが感じる事ができました。あぁ、良かった。私がしてきた事は無駄ではなかったのです。
しかしこれも、言葉の君が長い間苦心に苦心を重ねて世に米の教えを示してくれた御蔭というものですよね。この場を借りてお礼申し上げます。

詳しい事は、神言会HPとブログにて解説がされています。
でも、やはり勧めるには勇気が要ります。私のように、統合失調症になる人が出るのではないか、と心配だからです。精神を狂わされれる可能性のある仕組みです。これまでの自分に変調を起こすかもしれない教えなのです。読む場合は、くれぐれも自己責任で宜しくお願いします。

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