唐鵙の蔵

統合失調症になったけれど前向きに人生を歩む人のブログ。日々徒然。

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考えたのですが、そもそも、米教を通して可笑しくなった。その結果が統合失調症と診断された、という事であって、本当はもっと別の事が起こっていたという事といえるかもしれません。

その頃、米教を読むにつれて私は自分が本当はこの世に使命を持って生まれてきた存在なのだと思い込むようになっていきました。元々、潜在的に解離を起こしていた主人格です。それが意味と設定を付けられて、昴と瑳羅黒に分裂したのです。

その後に現れた人格においても、考えてみれば、これまで私が必死に被って来た仮面の一つ一つでした。家族や人前で被る仮面などは、お道化てみせる表情からAになりました。Aの存在も、形は元になった既存のイメージがありました。その時、強くイメージされた者がその仮面として、人格として現れたのでしょう。何故か召喚だったのですが、まぁ、それも既存のイメージがあっての事の筈。

最後に見つけた人格は、あの時死んだ幼い自分の姿でした。見つけた彼女はこう言いました。これでやっと成仏できると。その前には、自分の虚ろな心、虚無の心が出てきました。私がこの身体から抜け出してしまっていた時の留守番役でした。なるほど、この人格はずっと虚無を抱えていたのか。私は自分から離れていたのだな、と気が付かされました。でも、良心神はいなくなってはなかったと思われます。何故なら、何時までも親元に居てごくつぶしな自分に対して、いつも罪悪感で一杯だったからです。このままではいけないと思いながら、何も出来ませんでした。とはいえ、今は治療を受け、漸く前向きに活動しています。
それは、米教が切欠になったのかもしれません。
これまでの自分の業を膿だししてくれたのかもしれませんし、神の言葉に触れる事で、魂に禊ぎ(身削ぎ)が起こったのかもしれません。

とはいえ、まだまだ知らない事も多いです。
私がこうなった事にも因果があるはず。それを知れたらなぁと思いつつの今日この頃です。

尚、今は、人格交代している感覚は無くなりました。
もう彼らが表に出てきていたとしても、私にはもしかして今は誰々かなと思うくらいで、さっぱり分かりません。まぁ、口をついて出る言葉で気が付く事もあるのですが。
これまで気が付かなかった他人格の存在が米教を切欠に浮き彫りになって、そしてまた元に戻ろうとしている、という一連の現象かもしれません。今回、医師のお世話になって、漸く自分という者の心が出てきたように思うのです。それまではずっと鬱の様でしたし、現実感が消失していました。自分なのに自分の身体ではないようにも感じていました。やはり、幼いあの時から、何かしらの加療が必要だったという事なのでしょう。

もしくは米教を読む事で、浄化でもされたのでしょうか。私という存在においての心の建て替えが起こったのかもしれませんね。

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