唐鵙の蔵

統合失調症になったけれど前向きに人生を歩む人のブログ。日々徒然。

過去の投稿289

さて、米教の学びを以て、私はどうしたいか。

創造の神さまがいる事は知った。
心神さまの存在も知った。

しかし、知るだけでは足りないと、私も思うのです。
これからです。更生の期間は。
こうしてのんびりした時間を過ごせる事の有難味を胸に、締める時はしっかりしていきたいですね。

あとは時間が経たないと。まだ結果は出ていません。

***

入院中、私は己の人格と向き合ってきました。
仮面が一枚一枚剥がれていくようでした。
その中で、己の一番奥に存在していた人格は、過去の私自身でした。虚無。何も見たくない、何も感じたくない。その現れでした。私が主人格の席を空けて留守にした時、言いようのない虚無感と苦しみに襲われました。一体いつ自分は帰ってくるんだろう。苦しい。早く戻って来てくれ。そう感じていました。

思えば可笑しな話です。
自分はちゃんと自分としての意識がある。
なのに、戻って来てくれ?

それまでの事、自分の心を殺しに殺して生きていました。
そうすると、胸の奥ががらんどうになった心地だったのです。
私には心がない。そう思うようになっていました。
でも、その虚無の自分を見つけ出した時、分かりました。
これこそが、自分の本体だったのか?と。
その存在にも、人格が存在していました。

それは、幼い自分自身と通じる意識体でした。
あの時死んだ自分、これまで何度も殺されてきた自分です。
私という肉体の奥深く、虚無を抱えてうずくまっていました。
その存在に気が付いた時、ようやくそれが自分だったのだと気が付いた次第です。私の主人格級の人格の一人でしょう。その人格が主人格の席に居座る時がその近年、一番よく知る体感覚でした。がらんどうで、何も思わない。何も思わないから辛い事など何もないと、そう思わせる為の人格でした。
どうして苦しくなったのかは、米教を読んだことで影響され、己の心がもう嘘を吐けなくなったからかもしれません。嘘を吐けなくなったのが不思議な所です。
それでは今の私は何者かというと、幾つもの意識がかみ合って生じている人格です。これからは、その虚無の人格でさえ私に習合されて生きるのです。主人格級の人格など、本当は皆、幾つも持っているものなのです。それ全てが自分という意識になって、絶妙なバランスで働いているのです。

虚無の人格は、私にはどうしても必要な存在でした。
それは、幼い自分をも内包していた人格だったからです。
あの時死んで、心はそのままに、成長するだけしてきたのです。
その人は私の緩衝材でしたので、辛い現実と向き合うにはやはり必要な存在なのです。今は私達が人格を仕切っていますが、いつかはまた出てくる日があるのかもしれません。

話しは少し変わって、ケイオスの存在があります。
ケイオスはこの胸に宿る良心神とは別に、間質を埋める存在でした。この胸に宿る渾沌。命に人格が見出された存在です。
私という人は、入院中、何でもかんでも人格を見出していましたから、どれもこれもあくまで私の心を反射している鏡のような存在です。

こうして私という人は、今までの自分が形作って来た人格の断片を表に出し、また仕舞って、という作業を繰り返して言ったのです。統合失調症になってみて、自分という存在を、別人格と言う形で映し出し、向き合ってきたのです。

まだまだその作業は続くようです。
まだ、習合されない人格も多いです。
渾沌とした自分の内面と向き合う事はまだ続くようです。

ぽちっとお願いします☟
ブログランキング・にほんブログ村へ