唐鵙の蔵

統合失調症になったけれど前向きに人生を歩む人のブログ。日々徒然。

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思ったのですが、自分が特別であるという思考を捨ててしまえば、もっと楽になれると思うのです。

私は自分が特別でありたいという思考が、己の自由度に制限を掛けていると思います。例えるなら、米教。米教に辿り着いた一連の流れを特別なものだと思い、すなわち凄い事なのだと、そういう思考に支配されると、自分は特別なのだと勘違いする事になります。

米教は主神を知り、良心神の存在を学んで、その教えの元に生きる。知らない人が多くいる中で、自分は米教に辿り着いた。だったら、自分は特別な存在なのではないか、そう勘違いを生じさせます。でも、実際には神を知らなくても特別な人は多くいるものなのです。幾らでも、自分より優れている人もいれば、立派な人も多く居るものなのです。

私の場合は彼らがいました。
とはいえ、これも偶々気が付いただけで、人間にはそもそも潜在的に複数の人格があるものです。米教でも、人間には多くの霊の意識が働いているとしています。当たり前の事だったのです。

この統合失調症の誇大妄想も、自分が特別だと思い込みたい思考がそうさせるのでしょう。私は確かに、自分が特別であると思い込みたい人間です。彼らも、私を持ち上げてきますが、それは世辞というもの。本気に受けてはいけなかったのです。

私は小さい者です。
世の中は、私よりもずっと凄い人がいれば、その一方でずっと苦しい暮らしをしてきた人もいます。そう思うと、自分はいかに凡人であるか、思い知らされます。

いつも謙虚でいられればいいのですが。
驕れるものも久しからず。ただ春の世の夢の如し。
そのような思い、どうして持つのかというと、認めてもらいたいからです。誰かに良い子良い子と言われたいからなのです。
愛されたいからという気持ちもありますね。

単純に、承認欲求を満たしたい。その一言に尽きるでしょう。
承認欲求は、人間の基本的な欲求の一つです。
私は自己肯定感が低いのですが、その分、誰かから認められたい、自分を認めたいと思う訳です。その想いが、自己を特別だと、自分は認められる存在なんだと思い込みたいという気持ちや、錯覚を起こす要因になるのです。

己を肯定せずにきたしわ寄せが、ここに来て生じているという事ですね。他人と自分とをいつも比較してきたのが良くなかったのでしょう。自分の欠点ばかりに目をやってきたのなら、こうもなるでしょう。内向的で思い込みの強い人間です。

ですが今後は少しずつ改善できたらいいですよね。
見栄を張るのではなく、自分が凄いと思うのでもなく。ただ、自分のしてきた行いを正当に認めてあげる。それが必要な事だったのでしょう。今まで生きてきた大変さはその人だけのものな筈。

生きてるだけで、よくやってると、自分を褒める事くらいは良いのではないかとは思いますけれどね。

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