唐鵙の蔵

統合失調症になったけれど前向きに人生を歩む人のブログ。日々徒然。

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私の場合は、どれをとっても中途半端な事ばかり。
症状の程度も半端であるし、彼らに関してもその存在は半端者。
彼らは何でもない、唯の想念なのです。
だから、私の心のままに変化するのです。
”私達”とは渾沌であり、意識の寄せ集まりなのです。

そう、大元に、人間の意識や人格は一枚岩ではない事を知らなければなりません。我々人間というのは、幾つもの意識の集まりなのです。普段は気が付いていないだけです。
その事があるから、私は精神に変調をきたしました。
内在性解離を経てきた私の精神を以て、米教HPを読み込んだ事を切欠に、自らの内側に居る者が顕在化したのでしょう。

「己の心の中に誰かが居る。」

この探求こそが今の”私”の集まりと成り得た理由なのです。
本来なら、”私”は同じ”私”の集まりでした。しかし、内在性解離によって私の心はいつしか分かたれ、別の設定、別の”己”を持つ者へと断片化したのです。ひしめき合う”己”はいつしか表に現れ、”私”という想念の集まりで出来た人間を形成していったのです。

新しい”真理”に出会う度、私の心には新しい”外装”が生まれました。”私”はその外装を着込んで、新しい”己”を形作ります。”私”という者はそれほど多くの”服(外装)”を持っているという事なのです。
私はより多くの服を着こみ、するとその度に彼らの言葉も形も変わっていきました。謎言語も同じです。その度に内容を変えていくのです。
尚、私のいう魂には、外装と内装とがあります。人は新たな己を知る度、魂の衣服である外装を得るか、本来の自分の内側にある内装を充実させるかします。霊が姿を自在に変えるのも、この外装を着替えるからだと、私は思い至りました。

とはいえ、”私”のみに通じる話しですから、そのつもりでいて下さい。私には私にのみ通じる理が。それぞれの人にはその人にのみ通じる理が存在しているのです。

勿論、この話はただの思い付きです。本気に取らないでください。
ふぅんそんな事もあるのかなぁ、程度にしてください。
自分で言っていて眉唾ですから。

>それでいいのか、あんた。

まぁ、いいんです。
自分で言っていて「?」ですから。

それでは、今日の雑記でした。

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