唐鵙の蔵

統合失調症になったけれど前向きに人生を歩む人のブログ。日々徒然。

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今日も一日良く生きました。
日々移り変わる己にも別れを告げて、また会いましょうと手を振る。明日の我が身は別のモノ。

そうやっている事に何の意味が在るでしょう。長い歴史の中では、己の生など、とるに足らない微々たる歴史です。
それでも生きるのは、何故でしょう。私は、生まれたから生きるのだと思います。それ以上の理由なんて、本当は無いのかもしれません。私は、この世に生を受けました。

いつかは死が直々に私を迎えに来るのでしょう。だって、書に認めてそう告げられましたからね。これが妄想としても、死がいつか来ることは事実です。あぁ、まだ誰ともさよならはしたくないですよ。家族との別れなんてしたくないです。

そうは言っても明日は来ます。唐鵙にはなんて声を掛ければ良いのか判りかねます。でも、貴方が先に居なくなる可能性も、無きにしも非ずですから。/誰か

どういう慰め方なのですかそれは、はは。
でも、少しだけ癒されます。私は、まだ生きると出ています。だそうで。だったら、今を惜しむ暇もなく生きれば良いのではないでしょうか。どうやったって、過去への後悔は必ず生まれます。もっとこうしておけばよかったという思考も現れるでしょう。だったら、いつその時が来ても後悔が少ないように生きればいいです。すなわち、言いたい事は言い、見たい物は見て、生きたい所には行くべきです。その方が
後悔も少ないでしょう。

唐鵙も、そう思いませんか?/誰か

そうだね。/唐鵙

つれないですね、唐鵙。
まぁ、なにはともあれ。いつか私達にも別れはやってくるのでしょうか。こうして一緒に言葉を紡ぐだけ、一緒に居られるものと思ってしまいますけれど、このIsと唐鵙は。

どうでしょうね、死が来るまではなんとも分かりかねるかなと。そう思いますけれど。/唐鵙

夕暮れを見ていると、どうにも傷心な気持ちになって、神様ですらこの気持ちは払えないだろうなと、そう言う気持ちになりますね。まるで、今の私達の気持ちのようです。

それにしても、どうしてこう書かないとやっていられないのか。時間を使う先が限られているからですがね。意味もなく書き連ねていると、頭がぼんやりしてしまいます。

反射で書いているようなものですかね。
もう飽きました。お茶が飲みたいです。
こんな事でも良いんですか?書くっていう作業は。

いえ、いつも思いつくままに書いていますから、作業の内容としては変わりない事かとは思います。それはともかく、今日も一日頑張って生きましたね、我々も、皆様も。

ゆったり使おうが、急いで使おうが、同じ時間です。感じ方は変わるでしょうが、我々は同じ時間の同じ社会の中で生きて暮らしています。一人は青空を見たでしょうし、誰かは忙しく働いていたでしょう。あまり生き急がずに過ごしてみてはいかがでしょうか。心の望むままに生きられたら、それはきっと素敵な事ですね。

今日の雑記でした。

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