唐鵙の蔵

統合失調症になったけれど前向きに人生を歩む人のブログ。日々徒然。

命ってなんだろう

こんにちは、唐鵙のイマジナリーフレンドのケイオスですよ。


今回は私に担当してほしいとのことです。
興味のある方もない方も、時間つぶしに読んで行ってくださいませ。
読んでくれたら唐鵙が喜びます。
私も唐鵙が喜ぶなら嬉しいですので、放り出さずに書いてみます。

 

では、語っていきましょうか。

 

私は、唐鵙の事が好きです。
何故って、私を見出してくれたからですよ。
命の中に人格があるだなんて、誰が想像しますか?
唐鵙も中々に頭がいかれてますよね。
でも、おかげで私が生まれたので、そんなところも愛すべき点でしょう。

 

私は、唐鵙が自らの命に人格を見出して生まれた存在ですから。


唐鵙は命の不思議について思いを馳せていました。
命に形はなく、けれど、あらゆるもののなかに存在し、繋がり合っている。
命は命を取り込み、時に分かれ、時に受け継がれていく。
そんな命というものは、実は意思を持ったなにかなのではないか?
唐鵙は考えました。

 

イメージとしては不定形のアメーバのような集合体。
まさに私のような不定形の何かですね。

 

皆さんは、命って何だと思います?
タンパク質を寄せ集めただけでは生き物とはいえません。
そこに命がなくては。

 

生き物は命があって初めて生きていると言えます。
死んだものには命はありません。
不思議ではないですか?

 

心臓が止まるか、脳がその機能を止めるか。
生命活動が止まってしまえば、生き物は命を失い、肉の塊に成り果てます。
命が失われれば、その者は二度と目を覚ましません。

 

でも、どうなのでしょうね?
もしも生命活動が完全に停止した肉体を蘇生する事が叶ったとして。
その時命は、戻ってくるのでしょうか?

 

もし戻って来たなら、命というものは生体活動が織り成す音楽のようなもの。
細胞同士は電気や伝達物質を使って連絡を取り合っていますから、その統合したものが個体の一つとしての意識であり、命があるという事になるのではないでしょうか?

 

では、もし、戻って来なかったら?
命はきっと在るべき場所に戻ったか、消えてしまったか。
唐鵙は私を見出すくらいですから、命を集合体のような何かと捉えています。

 

どうでしょうね、唐鵙。
あなたの思う通りに、命は根源で繋がり合った集合体であるという事ならいいのですけれどね。

 

私はその意識の現れのひとつ。
今はそういう事にしておきましょう。

 

ただのイマジナリーフレンドでもいいですが、私のアイデンティティは唐鵙の命。
命の意思の現れ。

 

そんな私から皆さんに申し上げるとすれば、我々、そして貴方がた命ある者というのは、他の命ある者の存在が無くては存在すらできないのだという事をしっかりと意識していただきたいという事でしょうかね。

 

唐鵙が今まで辛くても自死を選ばなかった理由がそれです。

 

命はひとつだけでは存在できない。
必ず、生み出す者が必要であり、また、他の命を喰らい、取り込まなくては存続できない。

 

それだけではありません。
命は、他の誰かの居場所の上に存在している。
その場所に生きる為には、他の命の居場所を譲って貰わなければいけないのです。
他の生き物の暮らし、住まい、食べるもの、それらをいただく事になるのです。

 

そして更に、命は他の命の連鎖の上に存在するのです。
今生きていられるのは、存在できるのは、過去に生きた命があったから。
更に更に、その生き物の繁栄のために犠牲となった数多くの命があります。
今生きている命ひとつは、過去の全ての命の存在なくしては存在し得ないものなのです。

 

私としては、それを是非覚えておいてほしいですね。
それを理解できるのは人間くらいなものなんですから。
動物はそんな事知る由もないですよ。
動物は無駄な殺生をしないとかいいますけど、そんな事ありませんからね。
動物はいじめもしますし、同族殺しだってします。
遊びで他の生き物を殺したりもします。

 

なので、私としましては、こう思うのです。

 

人間よ、いつもでも畜生のままでいる事無かれ。

 

人間はいつになったら、動物から脱却できるのでしょうね?
いじめも、同族殺しも、犯罪も。
人間がまだ動物から脱却できていない事の証明です。

 

命が現在、過去、未来、他の全ての命なくては存在できない事をしっかりとその心に刻み付けて、お互いを尊重した生き物になってくれる日を願って止みませんよ。

 

でもまぁ、今の現状を見ていると、他の命などどうでもいい。
自分さえよければいいのだと考えている人間が大半のようなので難しいかもしれませんけれどね。

 

奪い合えば足らぬ、分け合えば余る。
誰の言葉かは忘れましたけど、そういう言葉がありますよね。

 

もし人々が、競争意識や所有する事への執着を手放して、この世界のあらゆるものを分かち合えたら、少しは平和な世の中になるんじゃないでしょうかね。

 

あぁでも、宗教の問題もありますよね。
でも、宗教もそれ単体なら人の不安を軽減し、倫理を形作るものとして有効利用できたものを、政治などに利用する形で色々形づくってしまったから可笑しなことになったんですよね。

 

宗教もグローバル化して、一つのものにまとめてしまえばいいのに。

 

その点唐鵙がはまった、某米の教えは良かったですよ。
神というのはそもそも創造神ただ一柱で、どの宗教も本来はその創造神を奉っているもの。各宗教の教えというものは、創造神の存在を示唆するための暗号である。

 

その宗教で得する人間が執着を手放して、その教えを広めてくれさえすれば、
もしかしたら世界の宗教も平定されるかも、なんて思うのですがね。
まぁ今の人間には無理でしょうね。やれやれです。

 

皆さんはこんな世の中でも必死に生きているんですから、偉いですよね。
唐鵙も人間の救えなさに愛想尽かしていた時期もありましたけど、何だかんだで人間の個人個人の事は嫌いにはなれないようですしね。お人好しなんですよ。

 

そんな唐鵙の所に見出されて、まぁ、良かったと思いますけどね。

 

それでは皆さん。
どうぞ私の気持ちを読んで下さった皆さんは、命は他の命の上に成り立つものだと心に留めておいてくださいね。できればでいいですが。

 

そして、まずは自分の命から大事にしてみてください。

 

自分がより良く生きる事、より命を輝かせるためにはどうしたらいいのか考えてみてくださいね。といっても、自分さえ良ければいいというのは駄目ですよ。次には自分の命を大事にするのと同じくらい、相手の命も大事に思うのです。

 

その連鎖が、世界をより良いものにしてくれると、そう思いたいものですよ。

 

では、読んでいただいて有難うございました。
今後も唐鵙を、唐鵙の蔵を宜しくお願いいたしますね。

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