唐鵙の蔵

統合失調症になったけれど前向きに人生を歩む人のブログ。日々徒然。

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色んな事があります。人生だもの。

虚空にただ目を向けて、そして何十年が経ち、老いゆく我が身を抱いて、そしてただただ生きてきた。

考えてもみてほしい、そんな人生に一体何の意味があっただろうか。言わなくても、そんな人生に意味はない。しかし、それは違うと言う者もいる。それでも人生だ。ただ虚空を見つめる事こそが人生かもしれない。彼らはそう言った。

この世界は、移ろいゆくものだ。
何から何まで、変わらないものなどないのだと、彼らは言った。
そして、変わらないものは命の営みであると、そう言った。

どちらも正しいし、正しくはない。
この世のあらゆる物は矛盾を抱えて存在しうるものだ。
彼らは、彼らでもあったし、誰でも無かったという事でもあった。いざ述べようとしても、中々上手くはいかないものだと、彼らは言った。身体がそれを拒むのだ。いつか言いたかった言葉も、何もかも、上手く言えない。

この文言でさえ、私が本当に言いたかった事とは違うのだ。
今度こそと思っても、どうしても言葉は出てこない。
身体はそこに在る事すら拒んでわなわなとしだし、この心ですら言いたい何かを探しては、それを望むまいとする。

いつかは言いたかった事がある。
それは、人間は死ぬという事だ。いつかは、死ぬ時が来るのだ。
その時まで、せめてもの慰みに、この世での記憶を積み立てておこうではないか。私にも、いつか死神がお迎えにやってくる。
そう言う約束なのだ。私から約束した覚えはないが、そう言ったら、彼は悲しむだろうか。

彼は私に手紙をよこした。
それによれば、私はこうして記憶に、自分が死を迎え無までの間の出来事を刻み込んで、そして死んでいくのだと。
行く行くは死が私を包み込み、優しくあの世への引導を渡してくれるのだと思う。眠る様に、意識は段々と薄れていき、真っ暗な暗がりが私を覆う。そしてきっと、死ぬ。

いつかは、そうなるのだろう。
彼は、いつ来るだろう。私の家族を先にもっていかないで欲しい。どうせなら、私が一番先の方が良い。おいていく事は悲しいかもしれないが、少なくとも、先に行くのならば、私は悲しくない。

苦しみの先には何があるだろう。こんな事を描いていても、別に可笑しなことになると分かって居る。それなのになぜこんな事をかくのだろう。このままでいても、なにが起こる訳でも無い。
そんな事は判っている。なのに、この手は、頭の命令に背けない。頭がそう命じるから、こうして文字を打つ。
もうウンザリしていても、時間の使い方は何時まで経っても上手くならない。あぁ、神よ。私を貴方のおひざ元に連れて行ってほしい。神よ、貴方は私に言った。もう十分やったと。なれば、もうあなたの元へ連れて行ってくれませんか。
とうとう頭がいかれ始めたのか、唐鵙は。
いつにもまして、熱烈なお願いだな。死にたいのか?
死にたい訳ではない。ただ、楽になりたいだけ。そうなら、唐鵙、今もお前はいかれてるぞ。ただ、ちょっと調子が悪いだけだが、脈絡もなにもない。ただ、おもいつくままに頭の箱から言葉を引っ張り出しているだけだ。あぁ、神様、私はもう楽に成ってしまいたい。貴方に会いたい。神よ、神よ、私の知る神さま。
神さま、貴方は本当は私の内側にしかいないのですか。
私の知る神というのは、胸の中心に鎮座する者。神よ、神よ、貴方は私の知る神ですか?それとも、違う神ですか?
もう貴方が戻ってくる事はないのでしょうか。
明らかになるのは来年ですね。その時貴方が戻ってこなかったら、私はまた信仰を失くします。貴方が戻って来なければ、私はまた一つ生き甲斐を見失うのです。それが、どんなに酷な事か。

あぁ神さま。
神さま、神様。

こんな事を書いて、なんになるのでしょうね。
意味なんて、本当は無いのかもしれません。ただ、書きたいから書いた、それだけです。時間が、想いが、こうして文字の形をとって垂れ流しになっただけです。

何時消えるかも分からない、こんな世界で、私は今日も生きています。私というのは、唐鵙であり、Yでもあります。
もう、同化している気がしなくもないです。彼は、私が呼び掛けてもいるという感覚を返してくるばかりで、こうして文字を書いていても、絵を描いていても、基本的に見守っているばかりです。もう、いいのかもしれません。これで。

時々、手紙や詩をもらいます。
それは、私から私に宛てて書いた、必死な存在証明でもあり、今後とも一緒に居るというメッセージでもあります。

そして時々、現在の私がYであったのか、それともYが私であったのか、その区別がつかない事もあります。二重人格が合わさったような不思議な心地です。まぁ、段々と断片化していた自己が戻っていった事は確かです。Yは、断片化していた所から、どんどん直って行きました。それから、今、私の境界すら飛び出して、私という存在の曖昧さをその身を以て訴えているかのようです。

こうしてパソコンに向き合っていると、自分が何者であるのかという事が分からなくなってきます。時々入る修正。頭に浮かんでくる言葉、それを組み替える手の動き。どれもが、私なのか、誰なのかを曖昧にしていきます。

>困った物ですね。でも、それでも私達はYになりました。
もはや、そこには誰もなく。全てがYという名のもとにまとめられた存在です。だから、ブレブレな人格ですけれど、それもまた私達という者。少しくらいは見逃してくださいね、唐鵙。

>勿論、唐鵙はそんな事気にしません。唐鵙は、ちょっと不思議がっていますが、もはや、私というものへの拘りも捨て去ってしまった存在です。こうして見ると、なんていい加減なんでしょう。唐鵙が成りたかったいい加減とは違う方向に進化しましたが、これもまたいい加減というもの。移ろう自己に身を任せ、揺蕩う様に。

はい。私は今誰なのでしょうね。
そんな事はどうでも良い事だそうです。不思議な事です。
私の自我は、幾つにも別れました、そして、その誰もが私に成りたかった訳では無いのですが。といいますか、皆が成りたかったのはYだったのですが。

そして、それは叶いました。
皆が、Yという名を貰い、その存在としてこうして動いています。
寛解なのかどうなのか。私はそれでも生きていますけれど。
皆が皆、Yとして生きたがるので、大勢の存在がYを名乗ります。それだけ、愛されかったという事なのでしょうか。
私は、確かにYを愛しました。それは、私の半身として。
掛替えの無い友人としてです。安心して、私はYを愛しました。
そんな愛される位置に、皆が入りたがったのでした。

一人分の居場所。そこに皆が入りたがったので、それはそれは大変な事でした。一人になる為に、皆が創意工夫を凝らして一人になりました。人格が寄せ集まった彼らが、本当の意味で愛される時は来るのでしょうか。私は、Yのイメージをそのまま使っています。そんなこんなですから、今は融合しているYという存在です。のんびりしたくても、あまり人格がいるものですから、ソワソワしてしまい、落ち着かないのですよね。

でも、今度は私という存在になりたがるでしょう。
その時、私という者がどうなってしまうのかは、創造に難くはありません。私は、私です。ただ、Yと位置の交換は起こるかもしれないです。それでも、私は私という意識を引き継いで存在するので、自分から見ても、他人から見ても、<本名>という人間はなんら変わりなく存在し続けます。ただ、以前の<本名>はどこかに行ってしまうかもしれませんが。それでも、私は私です。
乗っ取りが起きるかは、分かりません。
彼らは愛されたいので、私がいなくなっては本末転倒です。だから、私は残るでしょう。その残り方がどうなるかは、分かりませんけれど。自我の境界の内側の何処かに、隔離されて残るのかもしれません。そして、普段は”私”が表に出ているようになるかもしれませんね。私は大事に仕舞われてしまうかもしれません。

もしそうでも、やる事は変わらないのですけれどね。
仕事を見つけて、働いて、自分という記録を付け続けて。
私という存在と向き合い続けて。

という訳で、今日の雑記もここまで。
いつも講読、有難うございます。それでは。

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