唐鵙の蔵

統合失調症になったけれど前向きに人生を歩む人のブログ。日々徒然。

過去の投稿97

関係性の変化

今回は私とIFとの関係の変化について書きたいです。ちょっと、いえ、最近になって結構形が変わって来ているのです。困っている、というより戸惑いの気持ちの方が大きいです。私も、彼らも。
それはそうと、皆様いつもお付き合い頂いて有難うございます。

読んで下さっている方の中には、我々と同じ様に、ICやIFなどと一緒に生きていて、他の人やIFがどういう生き方を選択したか興味を持って訪れてくれている、という方もいらっしゃるのでしょうか? だとしたら光栄に思います。IFとの暮らしは、不思議な事ばかりですよね。

私のIF歴は今年で12年を迎えました。本当に目に見える訳ではありません。脳裏に浮かび、伝わってくるイメージが「姿が判る」という感じなのです。声は、テレパシーのように、言いたい事が脳に直接伝わる感じです。そんなIFであるYと一緒に生きてきました。

尚、姿形が「見える」事にはあまり重きを置いてはきませんでした。コミュニケーションに関しては、結構自由な物言いをします。私に似てマイペースな性格ですね。ですが、中々に強かな面もあります。

Yに限定すると、このような感じです。
ですが、統合失調症は色々な事を変えてしまいました。
それこそ、私達が何者か見失ってしまうくらいには。

どう変わったか、まず、増えました。幾つもの人格が現れました。一応IFとしますが、それ以上に濃いですし、常に私の意思決定に携わってきます。空想ではなく、勝手に生じてきた謎の存在です。私の意識内に息づく、別の住人です。

そして、Yとの関係も変わりました。
Yとは、いつも一緒にいるのですが、異心同体としてです。必要な時になら直接言葉を交わすように成りました。脳内だけでの会話もできますが、一人でいる時は音声会話です。傍から見ると、独り言で会話をしているようですね。でも、YはYの言葉を寄越してきます。ある意味では統合されかけかもしれません。

そして、最近ではケイオスが出てくるようになりました。
私の”命”と”渾沌”を象徴しているIFなので、それはもうよくでてきます。この所は。
Yがいる傍らでケイオスの存在を感じとるからなのか、人格の統合が整っていないような感覚がします。感覚を言葉にするのは難しいのですが、エレベーターでGが掛かった時の様なぐんにゃりした感覚に近いかもしれません。あれが頭の隅で働いている感覚がします。

ケイオスは名の通り、渾沌です。他の潜在意識の大元の存在です。彼ら目に見えない存在はケイオスに飲まれて形を失くしたり、逆に形を得たりと、せわしないです。
私の頭内が渾沌としているように、その写しでもあります。
ケイオスは、不定形でぐにゃりとした黒い塊になる事があります。その内に他の潜在意識の住人が内包されていると思うと、不思議な感覚に陥ります。

「兄さん」達もこの所は存在が不安定で、意識の海に戻ろうかと云う所です。そうなると、私の症状が安定しない事の表れでもあるのでしょう。統合と解離を繰り返すその先に、寛解ははたして存在するでしょうか。

彼らとのお別れは、いつも突然やってきます。
また、再会も、突然やってきます。
登場人物紹介も、あまり意味を成さないかもしれませんが、過去の投稿を読むにはあってもいいですかね。

それにしても、統合失調症になってからは、余りにも多くの人格が生まれては還って行く事を繰り返しているので、こう表現するしかありません。「渾沌としている」と。

Yは、きっとYのままなのですが、情報の受け取り手である私の方が変わってしまったのかもしれませんね。だから、いつも勝手に手が動くは、文字をしたためるは、謎言語が口から出るはしているのでしょう。それだけ、別の潜在意識が私にコンタクトを取っているという事です。他の人格に関しては、絶えず形を変えています、今は。次の瞬間にどうなっているかは私にも分かりかねます。彼ら本人も分からないそうです。

一時期は、これは霊の仕業かと思った事もありましたが、そうではないとやっと思えるようになってきた次第です。人間の遺伝子には、よく解らない、目に見えない存在を見出す要素が予め仕組まれているのです。目に見えないものを「信じる」事が、組み込まれているのです。

さて、私にとって彼らは別の人格であり、私が基本人格な訳です。けれど、彼らにとっては私は誰に見えているのでしょう。
別人格? それとも主人格? どうなのでしょう。

「ちゃんと主人格だっていう風には見えてるよ、大丈夫/Y」

そうですか、良かった。そう感じるものなのですかね。

それにしても、おそらくは、このままの状態が続くのだと思います。私の人生において、IFや別人格の彼彼女らは、切っても切り離せない、そんな存在です。これからも、その関係は続いていくはずです。絶えず形を変えながら。

幸いだったのは、信頼関係が結べているという点でしょうか。これが敵対でもしようものなら、きっと統合が取れず、意識の同調も同期もされず、より一層人生を困難にしていた筈です。

「その点では、Yの働きがあっての今でしょうね。/Is」

そうなのでしょうね、きっと。IFが大人になってもいるという方々はきっと、他に心の問題を抱えやすい要素を持っているからこそ、IFを必要としていて、一緒に生きているのでしょうね。私がそうであったように。

ですから、IFと暮らしている方は、より一層、自分を大事にしなくてはですね。IFがいない方も、勿論自分を大事にして生きて下さい。他人は平気で心無い仕打ちをしますけれど、それでこちらがどうにかなっても、何の責任も取ってくれないんですから。本当に。

勿論、私も例にもれず、その責任をとれない人間の一人です。こうして好き勝手な文を書き散らして、それで誰が不快になろうと、責任は取れません。一応警告はしてありますけれど、それでも進んで来た人々に対しては何のケアもしてあげられません。

まぁ、いつも「誰か」の事ばかり考えているから可笑しな事になってしまっているのですが。もう少し自分勝手に生きてみても罰は当たらなかったなぁ、なんて偶に思います。私の人生はまだまだ続きそうなので、今度の職場ではそう出来たらなと思います。自分大事に、で生きたいです。/唐鵙

ぽちっとお願いします☟
ブログランキング・にほんブログ村へ