唐鵙の蔵

統合失調症になったけれど前向きに人生を歩む人のブログ。日々徒然。

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私が彼の人のページを読んで思った事です。
神さまは天国に在る住民達の美しい心こそを宝として愛でていると書かれていました。それは、とても朗報ではないでしょうか。

私達のように、真面目さが祟って心を病んでしまった人間や、誰かの行為によって傷つけられ心の傷を抱える事になった人間には朗報でしょう。私達は、自死はせずに踏みとどまり、苦しくともいつか来る天国へ渡る日の為に、正しい道を歩んでいればいいのです。そして、他者を思いやる事、同じ様に傷ついた方々に心を寄せ、そして生きていけばいいのです。きっと、ですが。

私は、まだ自分の罪が清算されたのかどうかは分かりません。
だってまだ親元で、両親の世話になって暮らしています。
勿論、私という人間を作ってしまった結果、こうなったとも言えます。ですが、その道に至るまでの選択をしてきたのは、自分自身なのです。私はそう思います。だから、私はせめて少しずつでも自立度を上げていこうと思います。

人の心を知るというのなら、愛善の心を知りたいです。
今まで、私は親友と呼べる存在も余りおらず、勝手に独りなのだと思い込んできました。でも、私にも友達と呼べる人はいます。それのなんと有難い事かです。私は、今後、ようやく一人の人間として、友達と面と向かう事をします。殻を脱いで、友達と向かい合ってみたいです。

そして、心の豊かさとはどういうことかという事を体感として学びたいのです。それは今の私でも感じられる事ではあります。
食べるものがあり、家族の存在がある。寒さに凍える事もなく、温かいものに包まれて生きる。幸せな暮らしを今私はしています。
でも、この瞬間にも、食べるに困っている人びとがいる。
私は、働いて得たお金の内の少しですが、寄付をしようと思います。少しでも、社会にお返しをする為です。豊かさを分けてみる事をしよう、そう思いました。

これは、私の胸に眠る良心神さまが告げる事でしょうか。
その良心神さまの働きで、私は恥を知り、少しでも自立したいと思いました。そして、知ってしまったが故に、寄付をしなければという意識が芽生えました。私の中に眠る良心神さま、ちゃんと私の心の内にいてくださっているでしょうか。いて下さっていると、良いのですが。

私は、自分に嘘を吐き続けてきましたし、周りにも取り繕って生きてきました。その結果が、今の、嘘がつけない統合失調症です。
私は、いつも人生はなんて辛いのだろう、人間はなんて汚い生き物だろうとばかり考えていましたし、そのため、世界を拒絶していました。でも、余りにも辛かったなら、助けを求めれば良かったのです。それに気が付くのに、かなり多くの時間を費やしてしましました。結果的に消耗してしまったエネルギーと時間は測り知れません。私は、自分の人生が無駄だったとは思ってはいません。
ですが、もうちょっと器用に生きられたらな、と後悔する事はあります。不器用だったのです。あまりにも。

そしてYに救われた私ですが、そのYもIFとして、もう私の精神に戻ってきました。これからは、自分の身と心を以てして生きていくのです。結局は、私は己を分割して、己自身を愛して生きていたのです。これからは、他者を受容した生き方を学ぶ時です。
そうすれば、自ずと人生は開ける。そう思いたいです。

神さま。私は、不器用な生き方をしてきましたけれど、まだ人間として捨てた者ではないと、そう思いたいです。まだ、私には出来る事がある。だから生き残って来たのですよね。自分への気付きでいえば、私は多くの事を学びました。
そのどれもが、私の殻を厚くして、身動きを取りにくくしていた要因だったかもしれません。でも、無駄ではなかったと、そう思っても良いのでしょうか。いえ、そうでなければ、私はどうしたらいいか分からなくなってしまいます。

私のこれまでの学びはこうです。
人間は悪い心を持っていた。誰もが、陰では何をしているか分からず、互いの足の引っ張り合いばかりしている。弱い者や弄れる人間を寄って集って虐める。自分本位な精神を持っているのが普通である。妄想でしょうか、そうかもしれません。でも、私の見てきた人間達は多くがそんな人たちでありました。でも、その中でも、良心を知る機会はありました。

自分は嫌われるかもしれないが、それでも叱って正す。という行為です。働く中で、それを知りました。私は、”貴方の為”という言葉で以て叱られると、どうしたらいいのか分からない感情の爆発を起こします。涙があふれてきて、どうしようもなくなります。パニックです。それは、一体どうしてなのか、未だに分かりません。
その時は、感動で一杯になるのです。でも、それは嫌いでした。感情に手が付けられなくなる事が嫌いだったのです。後から、どうせ自分が気に入らないから、やら、利益を損するからだろうと自分を無理やりに納得させ、その言葉を嫌いな言葉なのだと押し固めるのです。そうしてきました。でも、きっと、嬉しかったのでしょう。

叱ってくれるという行為にはきっと、ちゃんと良心があって、自分の為にここまでしてくれたと思うと、もう胸が一杯になってきたのだと思います。この働きが、良心神さまによるものだったのかもしれませんね。人間なんてどいつもこいつも裏で何をしているのか分からないんだと諦めていた自分にガチンコでぶつかってくる人に、私は知らぬ間に感嘆していたのかも知れません。……、たとえ、その場限りで、自分の陰口を言っている人と同一人物が起こした行動だったとしてもね。その行為に、私は感嘆したのでしょう。一時でも。

でも、これからの学びは少し成長しました。
人間は、そういう弱い小さい部分も大いにありますが、反面、そんな人の中にも、生き永らえている良心があるのだと。人間の良い所は良心に基づく愛善の行動が在る事です。そして、人は一人で何かを成せるものではない。助け合っていかなくては、何も成せないという事です。これは、今後も社会に出た私の支えになってくれる事でしょう。私は、今度は適切に助けを求められる人間になりたいと思います。そして、反対に、適切な形で誰かの助けになれる人間でもありたい、と思います。無理せず、自然体で生きられたら、私はもっと自分の心のままに、穏やかに日々を送れると思うのです。

私がそれを実践すれば、つられてそうする人も出るかもしれません。そうして次に次にと繋がっていけば、それはとても素敵な事ではないでしょうか。
理想ばかりですが、実現したら、素敵ですよね。

神さま。私は、まだまだこれからが学び所のようです。
希望を持って、日々を過ごしていきたいと思います。
いつもいつも、私達に生きる糧を、身体も心も、感謝申し上げます。こうして生きていられる事。家族一家そろっている事。毎日を暮らせる事。その全てに感謝申し上げます。

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