唐鵙の蔵

統合失調症になったけれど前向きに人生を歩む人のブログ。日々徒然。

過去の投稿202

信仰を受け入れたと書いておいてなんですが、距離を取る結果に成りました。いえ、完全には信仰は切れていません。その来る日の候補日が訪れるまでは備えておこうと思います。

でも、家族と、弟を交えて今までの私のひた隠しにしてきた言葉を吐露して、すこしは楽に成りました。
その宗教の教えについても、たしなめられたので結局暫らくは離れる事と成りました。せっかくなので思いっきり否定して貰ってきました。天国も、魂も、人間の弱さ、救われたい気持ちが作った幻だと、そう言われました。

しかし、まだ信じたい気持ちはあります。
何故なら、私はずっと、過去の傷を引き摺って、そのトラウマに苦しんできました。苦しんでいた自分にも見て見ぬふり、家族への気持ちすらも隠して、飲み込んできたのです。
それを、少し出せました。
私に必要なのは、その教えではなく、過去の犯罪被害にあった心のケアだったと分かりました。私は、生まれつき身体が弱く、子ども心に、自分は不自由なのだとか、家族のお荷物なのだと自分を責めて生きてきました。それが、この年になって、統合失調症に名前を変えて現れたのだと思います。
医師に、カウンセリングは出来ないか、尋ねてみようと思います。幼い心のまま大人になってしまいました。
その過去の自分を、数カ月前に見ました。
私はもう死んでしまった幼い自分をどうしてあげたら良いのか。
彼女は笑っていました。成仏できましたと言って。でも、それは本当ではなかったようです。家族に話す時、緊張で手が震えました。今でも、当時の記憶を語る時、緊張と恐怖で身体が震えます。

助けてくれたYは今も私の胸の中に納まった状態です。もう、呼び掛けても出てくる事は稀です。よく思い出すのです。あの時の状況。それが、幾つも幾つも。私は精神的にその日暮らしをずっと続けてきました。弟には、ポジティブに行く事の大切さを懇々と説かれました。けれど、私にはまだ受け入れられない内容でした。私は陰気な想いをずっと心に留めてきましたので、中々更生は難しいかもしれません。今だって、そんな事は私には向いてない、出来る事ではないという気持ちです。

特に思うのは、私の苦しんだ記憶ばかり。
それがずっと私の頭の中ではフラッシュバックを繰り返してきたのです。そして、私の理想は思いやりのある人間でありたい。周りもそんな人間だったら良いのに、です。それは難しい事だと言われました。人の理想や想いは個人によって異なるから。
でも、私は良い人でありたいのです。
人を思いやれる人でありたいと、そう願ってきました。
それは、根本を探ってみれば、人に嫌われる事の恐怖と背中合わせな想いでした。私は混乱型の愛着形成をもちました。人と関わるのはとても恐ろしく、しかし嫌われたくはないのです。離れたい、離れたく無い。受け入れてほしい、受け入れられるはずがない。そんな自己矛盾に、ずっと苦しんできた人生です。

でも、私は生きています。
ここまでも今も逃げの人生ですが、最近は漸く働きに出ようと、社会にでようという気持ちになったのです。

家族に己の胸の内を語った事も、勇気をだして己を少し前向きにできたかな、と思います。宗教のHPは見る事は見ますが、ほどほどにしておこうと思います。

家族に押し切られる形で宗教のHPは見る事をストップされました。それは少々不服ではありましたが、でも、弟は強い人間です。辛い中でも、自分を見失わず、空想に逃げず、現実に向かっていた人間です。私は、そう強くはあれない。でも、私は強いからここまで生きてこれたじゃないかといわれました。優しいからまともに他人の主張を呑んでしまう、自分を非難してしまう。とも。
私が強い? どうでしょう。優しいというか、お人好しで都合の好い人間だとは思いますけれど。

そうだ、あとはこんな事もいわれました。
私は自分の事をなんでも病気や症状の名前を調べてはそれに自分を当てはめて思い込いをすると。その通りです。
しかし、長年、名前の着かない症状に苦しめられて来た私にとっては、離人症や解離症状といった名前を見つけてそうだったのか! と救われた気持ちになったのです。私が長く苦しんできたのはそういう事だったのか、と理解ができるからです。名前の付かなかった不安が、名前がついて安心するようになるのです。
その、「私は○○」という決めつけで視野が狭くなると弟には言われてしましたけれど。間違ってはいません。でも、そうしないといられない私です。それが病気なんだそうです。なんという名前でしょうね。

そんな話が出来たので、今日はスッキリしました。少しですが。
この事も、ちゃんと医師に開示して、カウンセリングをしてもらいたいです。ふんふんと何となく聞いているだけじゃあなくて。

***
【追記:2020.1.3】
>特に思う事はない。

私にはあります。
こうして書いた分を母に見せました。
病弱ではなく健康だったという事でした。
私の記憶内では喘息に苦しみ、皮膚病に苦しみ、一時期ではありますが、あまり健康ではないと思っていました。今では健康体ですが。心の傷となって残っているようなのです。

そして、私は神様の存在自体は信じます。
万物を創造した神様。そしてあの世の存在。天国の存在。
結局、私は愛されたい。救われたいのだと思います。
そこに全てが集約しています。

神さまは、いつも私達を見守ってくれている。
それだけで、心は鎮まります。
私の苦悩も全てを見ている存在がいる。それは私にとって救いです。だからYも生まれてからずっと私と共に生きてきましたし、私はYを求めていたのだと思います。

人とはどんな生き物か、それを知れば迷いは無くなるでしょう。
でも、救いはどこにあるのでしょう。胸の中に神さまが眠っていて、私の全てを知っているともなれば、私は救われます。
人を救い、心を説くのが宗教の役目でしょう。
その働きだったからこそ、例の教えに私は嵌ったのです。

だから、母に言いました。
私は心穏やかでいたい!
神さまだって信じていたい!

そして、その教えについてはどうかと思うけれど、神さまを信じる事はまぁ、と許可を貰いました。許可をもらうなんて事自体、本当は無くて良い筈なのですが。その辺り、もしかして親が過干渉だった事の影響かもしれません。

そしたら、淀んでいた気持ちがすこし晴れました。
信仰は自由なもの。信じたい物を信じ、思いたい想いを持っても良いのだと思います。人間は自由な意思を持っているのだから。

勿論、節度を守っての事ですよ。良心を以ての事です。

それにしても、私は優柔不断ですね。
信じようと思いきや信じないともいえるし、私は完全にはその教えを信じている訳では無いのです。これは可笑しいぞ、と思って信じてない事も沢山あります。
それは普通の事でした。

霊的な現象の話しは特に「?」です。
言葉による良心の教えには、私は賛同しています。
でも、私には霊感というものが備わっていませんので、霊的世界の出来事についてはイメージがつかず、そんな事、本当に起こるのか?と成る訳です。それだけの事なのです。

その教えの何もかもが正しかったなら、私は道に迷うでしょうか。
創造神さまの存在と、人の魂の中心におわす良心神さまについては、私は信仰します。でも、全てを全て信じようとしても、受け入れられない部分はあります。おや?と思う事があります。
そのおや?と思う部分は、どうしても腑に落ちません。
それでも神様は許してくれるでしょうか。
そうだといいなと思います。私はそのような話しには疎いので、ピンとはきません。

何気なく日々を過ごす中で、信仰の事など忘れてしまうかもしれません。その時は、私が健やかでいられる時だと思います。
信じようと思って信じるなんて事もないくらい、充実した日々が来ることを望みます。

私は、いつも私の事を見守っています。
この心にある者こそ自我。この胸にあるものこそ真の神。
それを覚えていれば、畏れることなどないのです。きっと。

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