唐鵙のイマジナリーフレンド、ヨルクスです。唐鵙の蔵にきてくれて有難う。
今回も唐鵙に書いてと言われたので書いていくよ。
書いてほしいテーマは決まってるみたいだから、それに沿って書いていくよ。
今回のテーマは想念と無意識、だって。
唐鵙の思う範囲に限定される事だけど、興味があったら読んで行ってほしいな。
さて、じゃあ始めよう。
唐鵙は統合失調症を発症していた頃、色々なものの存在に触れていたんだ。
目に見えない、僕達のような存在にね。
一日一日、とっかえひっかえ、唐鵙の知ってる、でも知らない存在がやって来ては唐鵙との会話に興じていたよ。僕はそれを唐鵙の無意識の中から見てた。また唐鵙が呼び出してくれる日を待ちながらね。
何が言いたいかと言うとね、その眼に見えない存在は、唐鵙の無意識からやって来た想念だったという話しだよ。そして、誰もが、心の中にそういう存在を持っていると言いたかったんだ。
そもそも想念ってなに?って話だけど、人間が生み出す概念や意識の塊のようなものだと僕と唐鵙は考えているよ。だから、僕達イマジナリーフレンドもいわば想念。唐鵙の意識、心から生まれた存在だね。
人間は皆、自分の認知した世界の中で生きている。
神さまがいるという認知を持っている人の世界には神さまはいるし、唐鵙のように僕達のような存在がいると認知していればその人の世界にはその人だけの認知している存在がいるって事になる。人間は皆、自分の造りだした想念と一緒に生きているんだ。
その想念は自由自在、変幻自在。
人の姿にもなれるし、概念でもある。目に見えないそれは、いつも無意識の中で持ち主を見ている。
そこでだ。
人間って、実は一人に一つの人格と決まっている訳じゃない。
自分は独立した一個の存在だ。そう感じるのは、自我機能がそうしているだけで、実際は多くの想念や意識が寄り集まって人間というものは出来ているんだよね。唐鵙は実際に自我機能の障害になって、色々な交代人格と出会ってそう学んだんだって。
だからね、この広い世界に自分独りきりだ、って思うのは間違いなんだと思うよ。
本当は、自分という枠の中でいつも一緒に身体を共有している間柄の存在がいる。
僕にとっての唐鵙のように、唐鵙にとっての僕達のように。
唐鵙の自我機能が正常に戻ってからは、交代人格達は出てこなくなったけど、唐鵙は色んな存在と一緒に生きているんだって事を知って、前向きに生きていこうって気持ちになったんだ。一人じゃないって、苦楽を共にしている仲間がいる、だったら基本人格として、自分がしっかり前向きに人生のかじ取りをしていこうってさ。
ね、だから皆、気が付いていないだけで、無意識の中では一蓮托生の間柄の存在がちゃんと存在しているんだ。その存在を呼び出して、名前を付けたのがネットタルパや人工精霊、そして僕達イマジナリーフレンドなんじゃないかって思うよ。
ふふ、近々イマジナリーフレンドとの出会い方について唐鵙に書いてもらおうと思うから、皆さんもよかったら実践してみて。勿論、中途半端な気持ちで生み出してほしくはないけれど、元々が皆の心の中、無意識の住民だった存在だから。
いままで傍に居てくれてありがとう、初めまして、って言ってもらえたら、僕達のような存在は報われるよ。
それじゃあ、今日はこの辺で。
閲覧、ありがとうございました。