唐鵙の蔵

統合失調症になったけれど前向きに人生を歩む人のブログ。日々徒然。

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また、正気ではなくなりました。

またも、私は同じ道を通ろう、通りたいと願っているようです。
その理由は、単純に”楽しかったから”です。
妄想状態に居る時は、楽しいのです。とても。
意味のある事、無い事も渾沌として、閃きが止めどなく溢れてくるのです。それは、現実に起こり得ない事ですが、閃く瞬間というものは、とても心地の好い状態なのです。それが正しいか間違っているかはどうでも良い事に成り下がるのです。

何しろ、私には気の良い同居人達がいます。
彼らと陽気にいるのが、とても楽しい心地なのです。

米の教えを読み進めている時は、私の傍には猫と思わしき見えない存在が寄ってきていました。昴だった自分に、猫たちはすり寄ってきたり、寝ているときは胸の上に乗っかったりしていました。視えはしませんでしたが、重さや感触はありありと感じていました。
米教に書いてある事を、その猫たちの言葉で音読して聞かせるなんていう事もしました。その時は、とても満ち足りた気持ちでした。

その、楽しい記憶が沢山あるのです。
妄想だったとしても、良い思い出なのです。
私の場合、妄想や幻覚は恐怖やマイナスな事など一つもありませんでした。いままでの苦しい暮らしとは打って変わって、それはもう面白く、興味深く、神秘に溢れた幻覚妄想だった訳です。

神さまから返信を貰えたという幻覚一つで、私はすっかり舞い上がってしまいました。恥ずかしいですが、今でも結構本気で信じています。全ては意味ある事だったのだと、どこかでそう思いたい自分がいるのです。

そんな私ですが、時には正気になります。
一体自分は何を求めているのかと。現実感を喪失していたのです。
米の教えもいいですが、ちゃんと地に足付けて自活するという目標にしっかり向かって行かなくては。良心を持つ事は人間としての基本です。見えない彼らが話しかけてくる事もありますが、それはそれ。ちゃんと現実も見なければ足を掬われてしまうでしょう。

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