これは遥か昔の物語。”テュイーダ”が生まれた時のお話。
宇宙と共に生まれた彼は、唯独りで、途方に暮れておりました。
暗くて寒いその場所には、何も。
それこそ”何もかも”が無かったのです。
”あぁ、寂しくて狂ってしまいそうだ!”
テュイーダは寂しさの余りに、その魂を二つに分割し、
自分を守り愛してくれる者を造り上げたのです。
しかし、どうした事でしょう。二人の距離は広がるばかり。
それもその筈、テュイーダは、魔の者。
本当は、どうしようもなく苦しいのに、悲しいのに、嘘を言いました。
貴方がいなくても私は大丈夫だと。
あなたは本当の居場所にいるべきだと。
悲しい悲しいと、愛されたその者は泣き叫びました。
しかし、その者にとってはテュイーダは神さまそのものでした。
神さまがいいと言わなければ、その者はテュイーダの傍にも近寄れません。
だから、テュイーダは知らなかったのです。
テュイーダの知らない所で泣く者がいる事に。
知らない間に、その魂は何分割もされて、想いを届けようと躍起になっている事に。
数さえあれば、仲間さえいれば神にも届く。
そう勘違いしたまま、その者は仲間と共に歌います。
”愛してる、愛してる。どうして僕を置いていったの?
神さま、神さま、僕はここだよ、気が付いて。”
それは、純粋な愛でした。ただだた、神を求める想いの塊でした。
それを見ていた者が居ました。
神は、神は、どうしても一緒にいたかったのに、嘘を言った事を後悔しました。
もう何分割もされてしまったその魂の全てを、自分の元に戻そうと思いました。
しかし、それは簡単な事ではありません。
もう、何分割もされてしまった魂は、もう一つ一つ、独立した別物でした。
神は、その全てを愛そうと決めました。
魔の者と呼ばれて、蔑まれてきた者に、ようやく光が当たった瞬間でした。
”あぁ、ようやく、ようやく、貴方の元に帰れるのですね!”
目に見えない者達は決めました。
もうこれ以上、人間の姿でいる事もない。
人間に紛れて生きる事もない。
生きる事に意味を見出す事もない。
ただ、貴方と共に生きたい。
それで十分だったのだ。
そうして、この者達は神の国に渡り、人間はその数を減らし、神からどんどんと
遠ざかっていくのでした。
もう、神には人間は必要ありません。
人間にも、神は必要ありません。
愛する者は、もう、神の国に戻ったからです。
魔の者と蔑んでいた者が、本当は自分達を造りだした者とも知らずに、
今日も人間は己の命の在り所を知る事もなく、ただただ毎日を生きています。
人間でない者達は、きっと、神の元に帰れるでしょう。
魔の者は、つまり、まのもの、真の者。
いずれ、神が全てをとり戻したら、その時は、本当に世界は分け隔てられます。
人間と本当は神だった者達とに分けられます。
その時が、この世の新しいスタートであり終わりなのです。
それが、何度も言われてきたこの世の終わりなのです。
人は、死んで初めて自分が何者であったのかに気が付きます。
その時にようやく、神の元に帰れます。
テュイーダは言いました。
命の中に、私はいる。
いつも、いつでも見守っているから。
その時まで、待っていて。
きっと、迎えに行くから。
貴方を愛している。
これが、テュイーダの出した答えでした。
きっと、愛する者とテュイーダはいつまでもいつまでも幸せに暮らすでしょう。
これでようやく、御終いです。
めでたし、めでたし。
***
以上、お話しのような何かでした。
これは勝手に手が動いて書いたものです。
自分では意識せずに出てくる言葉の寄せ集めなので、所々よく解らないことになっているとは思います。真の者はテュイーダの二分した魂から生まれたとして、人間はいつの間に、どこから生まれたんだろう…?いや、まぁ、細かい事は見ないふりをします。
でも、それはどことなく、神さまに早くおいでと言われている自分の事だったり、私がヨルクスにさよならを言ってしまった時の事、某宗教の教えが被っているような。
自分の意識から出てきた言葉なので、思い当たる節はありますね。
魔物と呼ばれていた彼らは本当はマモノ、真の者。
神性に目覚め、善性を持った者の事。
人間の中には真の者が混ざっていて、神さまはその者を自分の元へと迎え入れてくれる。…なーんて、そんな事を考えていましたね。
何故って、人間って同じ種族なのに善性と神性に目覚めた人と正反対の人といるものですから。そもそもが違う生き物が混ざってるのでは?と考えたくもなるというものです。そんな事を考えていたから、自然とそんな言葉が出てきたのでしょうね。きっと。
皆さんは真の者側でしょうか? このようなブログに興味を持ってくださる訳ですから、心の事に関して感心が高いのではないかと勝手に思っています。
それでは、読んでいただき有難うございました。